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旅(17件)
2008年5月16日
人は旅をして気をもらう (4) 鳴門
旅
§ 壮大なる偽物絵画を観る! ⑨ 大塚国際美術館
19世紀後半に活躍した、ギュスターヴ ・ モローは、マチスとルオーの指導者として有名である。サロメに関する絵の方は以前に、ある雑誌でみたことはある。その絵はユダヤ王の姪サロメがバプテストのヨハネの首を所望し、断首され血のしたたり落ちている頭部を吊るしていた。大塚国際美術館のモローの 『 オルフェウス 』 でも、八つ裂きにされたオルフェウスの首と竪琴を思い深げに見つめるトラキアの巫女が描かれている。モローが何を表現したかったのか、気になる絵である。またモローは、 『 一角獣 』 という珍しい伝説上の動物をも描いている。モローは優れた教師であったという表記を2~3読んだことがあるが、これらの絵と教師ということが、私の中ではどうしても結びつかない。その意味では気になる画家である。
20世紀にはいると、さすがに親しみやすいというか、既視感をもって観ることができる絵が多い。その一番がパブロ・ピカソである。
地上2階の芝生に面した広間には、かの有名な 『 ゲルニカ 』 が展示されている。これは、ゲルニカの町に対するナチス ・ ドイツの無差別攻撃に衝撃を受けたピカソが、わずか1ヵ月、パリ万国博覧会のスペイン館の壁画として仕上げたという。ピカソの激しい戦争に対する、否、ナチス ・ ドイツに対する怒りが大画面一杯に表現されている。また、ピカソの他の陶板画は、初期から晩年までが系統的に展示されており、その画風の変化を追って観ることができ、面白かった。私の記憶に残っている、いわゆるピカソの青の時代のものはここには展示されていなかった。
100才まで生きたミロの絵は何か楽しい。マチスの絵が一点もなかったのは、マチスの子供や孫たちが許可しなかったせいなのか? ルオーの画も一点しかないのには、何か事情がありそうである。
ダリやエルンストの絵は象徴主義的表現をしているが、私にとっては、気味が悪い部類に属している。
最後は、テーマ展示で、1 空間表現 2 だまし絵 3 時 4 生と死 5 食卓の情景 6 家族 7 運命の女 8 レンブラントの自画像 という形で、展開されている。
1 の “ 空間表現 ” の中では、クロード・ロランの 『 シバの女王の上陸 』 という初めて観る絵があったが、奥行きのある表現がすばらしかった。
2 の “ トロンプ ・ ルイユ ( だまし絵 ) ” の部では、チャールズ ・ ウィルソン ・ ピールの『階段の人物 』 は、思わず、その階段に引き込まれそうな錯覚に陥った。
3 “ 時 ”の中に、ポール・ゴーギャンの絵が一幅あった。その標題は、 『 われわれは何処から来たのか? われわれは何者であるのか? われわれは何処へ行かんとしているのか? 』 で、哲学的である。例のブルー、ピカソやゴッホの青の時代の青より澄んだ青を画面の部分部分に塗っており、これが何を表現しているのか、今の自分には判らない。彼の哲学が奈辺にあったのか、いずれ調べてみたいと思う。この澄んだ青 ~ 空色で何を表現したかったのかを。
4 の “ 生と死 ” の項では、絵画に描かれたさまざまな時代の死生観が展示されていた。ピーテル・ブリューゲル ( 父 ) の『 死の勝利 』 は、戦争への強い批判と抗議が封じ込められている。
5 の “ 食卓の情景 ” では、ピーテル・ブリューゲル ( 父 ) の『農民の婚宴』は、この時代 ( 16世紀半ば ) の人々の生活を活写していて面白いし、ルノアールの 『 ボート遊びの人々の食事 』 は、ひどく明るく楽しそうな食事時の情景が描かれている。ルノアールの遊んでいる集団の絵は思わず人をひき込むような雰囲気があり、観る側まで何かウキウキさせる。
6 “ 家族 ”、 7 “ 運命の女 ” の項はそれ程面白くもなかった。観る側が疲れてきたせいなのか。
8 はレンブラントの自画像14枚、年齢順に並べていて成る程という感じで観れる。やはり、自らの過去の変遷を自画像を通して観ることができるのは、画家にとっては、現代の写真で自らの過去を振り返る意味と等しいかもしれない。しかし、絵では、その時の精神状態をも込めることが可能なので、写真よりも数倍あるいはそれ以上の価値があるのかもしれない。
壮大な偽物絵画展の物語は本日で終りです。
2008年5月15日
人は旅をして気をもらう (4) 鳴門
旅
§ 壮大なる偽物絵画を観る! ⑧ 大塚国際美術館
近代でも18世紀半ばになると、絵の雰囲気が変ってくる。現代に通じるものをキャンバスから感じ取れる。マネ、モネ、ルノアール、ドガ、ロートレック、ピサロ、スーラ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンの画が次々に現われてくる。さらに、ムンク、ルソー、クリムトと。それ以外に馴染みのない画が所狭しと並んでいる。壮大な偽物美術はいつの間にか、本物と意識の中で転換させられて、飽くことなく観てまわった。
何が変って来たのだろう? …。絵画の中でも都市化が起きて来たのだ。そして、日本の浮世絵に触発された新たな絵画界の息吹が感じられてくる。主としてパリを中心舞台にしたものとして。
マネの 『 フォリ=べルジェールのバー 』、 『 草上の昼食 』 は、時代を画したものと思われる。マネの “ 黒 ” の扱いがひどく印象的である。モネの睡蓮 ( すいれん ) 以外の風景画があったのは少し驚くとともに、人間の中途半端な知識や感覚は、結構、いろいろなものを観る側に勝手な想い込みを植えつけ、モネはこんな画家と決めつけるような “ 偏見 ” を具有させてしまう。だから、モネの睡蓮とは趣を異にした風景画に出くわすと “ エッ ” と少々驚くのである。これは、あくまでも少々であって、ゴヤの “ 黒い家 ” の連作を観ての驚きは吃驚のレベルである。当時、日本の浮世絵の影響あるいは日本趣味は、モネの 『 ラ・ジャポネーズ 』 の画面一杯に踊っている。妻カミーユの着衣とその後背の壁には日本のうちわが描かれ、いずれにも日本の浮世絵を見てとれる。モネの 『 日傘の女 』 の石版画は天心堂にもある。しかし、フランス在住の画家が、19世紀後半に浮世絵に大きな驚きをもって傾倒したのは、日本の文化はそれだけのすごいものをもち、彼らに大きな衝撃を与えたものとして、日本人はもっともっとこのことを自覚していいのではなかろうか。
ルノアールの絵は極めて明るく、そこの人物がひどく人懐っこいので人気があるのだろう。肉感的な絵であるのは、ルノアールがやや肥満気味な女性を好んでいたのだろうと勝手に推測している。『 桟敷席 』、『 ムラーン・ド・ギャレット 』、 『 田舎のダンス 』、 『 都会のダンス 』、『 浴女たち 』、『 アルジェリア風の衣装を着たフルーリ嬢 』、『 ピアノに向う娘たち 』 など人間の暖かさを感じさせる。『 日傘のダンス 』 には妻を描いていると言われているが、横広がりの明るい女性として描かれ、右手には扇を掲げているが、ここにもまた、ジャポニズムが表現されている。
ルノアールの明るさに対して、ドガはどちらかと言えば暗い。ネアカとネクラという形での比較もできそうだ。ルノアールの絵には躍動感を感じるが、ドガのそれには抑うつさを感じる。それは、お前が素人だからと言われるかもしれないが、そのような印象を持った。
ロートレックの絵はあまり、迫ってくるものがないような気がする。スーラの点描は根気がいるだろうなと想うし、しかし、その根気強さには、自らの独自の画風を作るための執念のようなものを感じる。やはり職人なのか。それは、『 グランド・ジャット島の日曜日の午後 』 の中で凝縮されている。
セザンヌの『 松の木のあるサント=ヴィクトワール山 』 は、他のヴィクトワール山や風景画でも、黄色の使い方が独特なものがあるような気がする。
ゴーギャン、私の好きな画家の一人である。『 説教の後の幻影』 、 『 イア・オラナ・マリア( マリアを拝む ) 』 の中の赤は、ポンペイアンレッドに近い赤が使われている。何故か、ゴーギャンの絵には精神性の高いものを感じる。暇をみつけて、何故タヒチに行ったのか、どこでゴッホとけんかをしたのかを知り、原画を観れば、また違う印象を得るのかもしれない。
ゴッホの 『 自画像 』 と 『 ひまわり 』、『 アルルのゴッホの部屋 』、『 オーベールの教会 』、『 麦藁帽子の自画像 』 などが並んでいたが、やはり彼独特な筆さばきで、いやに存在感のある絵である。彼の “ 狂気 ” を恐れてか、生前には1枚も絵が売れなかったという。調べたくなることだが、すでに多くの専門家、評論家が調べて書いているのだろうから、それをみてみたいと思う。『 ひまわり 』 は、新宿の旧東京海上火災の高層ビルの最上階で何度か見たが、そこでは手で触れることができないが、ここでは触れることができる。しかし、ここでの陶版画は本物をみていたせいか、なぁーんだという形で通りすぎてしまった。機会があれば、じっくり見比べてみたいものである。
ムンクの絵 『 叫び 』 は、現代社会を予見したような絵で恐い感じがする。
ルソーの絵もまた、彼独自の世界を切り拓いている。 『 子供と人形 』 もさることながら、『 戦争 』 の絵は、それこそ戦争のむごさを予見し反戦を謳った象徴的な絵でもある。
クリムトの絵は、装飾壁画にすれば良さそうな官能的な絵で、あまり好きになれない絵である。
近代という時代区分の中で展示されている絵は、18世紀、19世紀なので比較的判りやすく、人間を描き、人間存在への不信と脅威を描いていることに特徴があると言えるのだろうか。近代の中でルネサンス期から人間存在への讃美というものは次第に薄れてゆき、絵画にも精神性を次第に謳い始めてきているように感じたが、これは美術館の順路に沿ってきたからなのか、それとも、私、松本文六の独断と偏見によるものか。考えどころである。
2008年5月14日
人は旅をして気をもらう (4) 鳴門
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§ 壮大なる偽物絵画を観る! ⑦ 大塚国際美術館
近代…18世紀にはいると画風がまた一段と変ってくる。
ここには、ターナー、ルノアール、ゴッホ、セザンヌ、ゴーギャン、ムンクなど約330点が展示されている。この時代の絵は、教科書や美術館、あるいは新聞やテレビなどでお馴染みのものが多い。少しは絵画に興味ある多くの日本人であれば大概知っているのであろう絵がほとんどである。私がそう想ったのは何で?と、考えてみたら、実は小生が日本経済新聞の日曜版の美術特集でしばしば出くわしていたからである。
このフロアには、特別にゴヤの “ 黒い絵 ” の環境展示がなされており、順路の手前に 『 裸のマハ 』 『 着衣のマハ 』 があったので、その落差にビックリしたが、演出の憎さをも感じた。
歴史的一瞬を一枚の写真のように描いているのも、この時代の特徴かもしれない。ダヴィッドの 『 皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠 』 はその一端である。一室の壁全面を占める ( 621×979 cm ) 華やかな場面を描いたもので、現在でいう集合写真、セレモニーの一瞬を写真にとったような絵で、これはナポレオン1世がえらく気に入っていたものらしい。支配層の人々の晴れがましい表情にあふれている。しかし、その華やかな絵の隣りには、ジェリコーの 『 メデュース号の筏 ( いかだ ) 』 がかけられており、私はこの絵の方に気持がひかれた。これも大きな絵 ( 491×716 cm ) で、1816年に実際に起きたメデュース号の遭難事件を題材にした油彩画である。漂流生活の疲労困憊 ( ひろうこんぱい ) の中での、救助船の船影に驚喜している生者の動と、すでに死んでしまった同僚を抱えて虚脱状態に陥っている壮年者と息絶えた男と女の状態の静がみごとに表現された絵である。映画の一場面をみるような絵で、記憶に生々しく残るシーンである。
同じように歴史の一瞬とおぼしき光景が描かれているのが、ドラクロアの 『 民衆を導く自由の女神 』 である。中学校の教科書でも見たような気もするが、高校2年の時の世界史の教科書に掲載されているのを覚えている。その時、革命の先頭には女性が立っていたのか?とその時は単純に感動した。すごいことだなぁと幼いながらも驚いてしまったことを想い出させる絵であった。それは、私が過ごした中学生の頃の時代は、学校の廊下を歩いている時、向い側から女性が歩いてきている時には、男子生徒が反対側に寄って歩くという時代であり、精神的にも極めて未熟であったからである。
アングルの 『 泉 』 。頭ごしに水のはいった壺から水を落としている画面や、コローの叙情性豊かな詩的な風景画もどこか幼い時の記憶に残っている。それにミレーのかの有名な 『 落穂ひろい 』 は、当時はひどく貧富の差が激しかったことを物語っている。豊かな農民が、収穫を終えた後、貧しい農民が収穫のあとのおこぼれにあずかるという絵だが、当時、そこまでの社会的・階級的落差や格差を描かれているのだということを教師より教えられたという記憶はない。
ターナーの 『 テメレール 』 はかのトラファルガーの戦いで、勇名をはせた大英帝国海軍の誇りとした戦艦でそれを描いている。また、『 雨、蒸気、速力 : グレート・ウェスタン鉄道 』 は、速度を筆で表現したということで有名な絵であり、この2つの絵は、深く記憶に残っている。列車が、観る者に突進してくるような迫力と空気がある。 “ 速度 ” を筆で描きみる画家は世界広しと言えども、そう多くはないと想う。
クールベは、『 画家のアトリエ 』 の中で、《 画家の使命は、同時代の風俗、思想、習慣を描き、生きた芸術を産み出すことである 》 と主張している。当時、“ 写真家 ” の哲学をもっていたのであろう。ここでは、ミレーと同じように下層階級の人々の労働にくたびれきった人々をも、そうでない文学者などとともにカンヴァスの中で同居させている。
2008年5月13日
人は旅をして気をもらう (4) 鳴門
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§ 壮大なる偽物絵画を観る! ⑥ 大塚国際美術館
ルネサンス期からバロック期に移行すると絵の雰囲気がガラッと変ってくる。美術史家がルネサンスとバロックという形で分類していることがよく解る。ルネサンス期はキリスト教から離れた絵を描けなかったが、バロックになると絵に市民が登場し、風景が出てくる。様々な形で市民の顔がカンヴァスの中で現われ、中には、観る者が見られているという絵も沢山ある。
レンブラントの 『 夜警 』 は、光と影がまるで舞台の中での一場面のように躍動する人々が描かれている。
イタリアのルネサンスから、ヨーロッパ全体への拡がりをもって絵画界が変容して行ったのは、何が要因だったのだろうか。レンブラント、フェルメール、ホッベマなどのオランダがとりわけ傑出していたようだが…。
フェルメールの絵は人物を描いたものしか知らなかったが、『 デルフトの眺望 』 は、透明感のある、一寸の隙(すき)もない風景画で、観る者に迫ってくる空気を感じさせる。ホッベアの 『 ミッデルハルニスの並木道 』 は、何度が、中学・高校の教科書その他でお目にかかっており、親近感を覚えたが、素人の悲しさで、そこで終ってしまう。フェルメールの絵とホッベマの絵のどこがどう違うのか判らないが、観る側に迫って来るのはフェルメールの方が強い気がする。それが技量というものか?
庶民の饗宴を描いたり、養老院の女理事たちの実在感のある絵もある。他方で、絶対君主制を象徴する王や皇太子あるいはその家族などを描いているベラスケスもまたこの時期に属している。
ベラスケスの 『 ラス・メニーナス (女官たち) 』 は、よく話題となる絵だが、ベラスケス自身もこの絵の中に描かれているが、その品性を臭わせている。
他方、ベラスケスの半世紀程前の時代、スペインではエル・グレコが活躍している。宗教画を主体にしていたのか、そしてその中のキリストの面長の顔は、一目で忘れられない絵となっている。
ベラスケスに遅れる頃1世紀半後のゴヤは、“ 聾者の家 ” に移る十数年前には 『 裸のマハ 』 と 『 着衣のマハ 』 を描いている。この時期のゴヤの絵は “ 黒い絵 ” とは全く正反対に位置する華やかさで輝いている。そういう点で、ゴヤの内面に立ち入ったゴヤ論でも読みたくなってきた。 『 裸のマハ 』 は宰相ゴドイの要請で描かれたといい、着衣の方が数年後に描かれたというが、着衣の方がモデルそのものに余裕があるというのか、裸の方は画面が何となく緊張している感じがする。宰相の命令で緊張していたのだろうか? “ 黒い絵 ” からすると 『 裸のマハ 』 はゴヤ自身あまり描きたくなかったのか? という気もする。
しかし、このような形で、書き記して行くと、よくもまあこれだけの絵をあきもせず観て来たものだと自分自身でも驚いている。
2008年5月12日
人は旅をして気をもらう (4) 鳴門
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§ 壮大なる偽物絵画を観る! ⑤ 大塚国際美術館
環境展示より、系統展示の部屋へと移る。
古代の部の圧巻は、紀元前100年頃の 『 アレキサンダー・モザイク 』 と呼ばれているものである。これは、ポンペイの 「 ファウヌスの家 」 と呼ばれる邸宅の一室の床を飾っていたモザイク画で、縦313cm、横582cmの大きなものである。これは、アレクサンドロス大王と、ペルシャのアケメネス朝最後の王ダレイオス3世の戦闘場面を表現したものだ。一辺7~8cmの正方形のモザイクがビッシリ埋め込まれていて一幅の絵となっている。一部はヴェスヴィオス火山の大噴火のせいで欠落しているが、当時の権力者の勢威をも感じさせるものである。
古代は、ほとんどが遺跡から出土したものの複製であるが、アッティカ最大の陶工・陶画家であるエクセキアスの壺の複製(平面化したもの)の画(紀元前530年頃)は惚れ惚れとする線描で、お金があれば、すぐにでも買いたい衝動に駆られる傑作である。
ポンペイの出土品には、大噴火の “ お蔭 ” で優れた画面を彷彿 ( ほうふつ ) とさせる色彩を残している。
中世にはいると、ほとんどがキリスト教に関する絵画である。そのあとに続くルネサンスは誰もがよく知っている名画が次々に出てくる。ミケランジェロ、ラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、アンジェリコ、ボッティチュリ、ジョルジョーネ、……と。
ラファエロの 『 アテネの学堂 』 の、プラトンとアリストテレスは、何度か、雑誌などで眼にしていたが、こんなにも大きいものとは想像だにしていなかった。577×817cmのフレスコ壁画である。
レオナルド・ダ・ヴィンチの、かの有名な 『 最後の晩餐 』 の修復前と修復後のテンペラ壁画の2面が一室に対座する形で展示されている。これもまた、すさまじく大きい。420×910cmである。キリストの正面左側の像は修復後明らかに女性であると判明し、恐らくこの女性はマグダラのマリアだろうと言われている。『 モナ ・ リザ 』 もあった。
ボッティチェリの 『 ヴィーナス の誕生 』 は、装飾的な絵画で、ラファエロやレオナルド・ダ・ヴィンチの人間を感じさせない絵である。この時期には、絵画表現に名を借りた官能的な絵も随分作られたらしい。
ヒエロニムス・ボスの 『 快楽の園 』 の左翼の絵は地獄図だが、仏教の天国と地獄とほんどの変りない。悪いことをすると閻魔さんから舌を抜かれるぞ!と子供の頃、親から脅かされたのと同じ場面が描かれており、キリスト教でもそうだったのか、と少々驚いた。それは仏教の中だけの話とどこかで刷り込まれていたせいなのだろう。キリスト教では天に召されるということだけを聞いたような変な記憶がある。地獄があろうとはこの時まで考えたことがなかった。ミケランジェロの 『 最後の晩餐 』 の壁画の下段には、しっかりと地獄が描かれていたが、ボスの方の地獄図の方が先のような気がするが、15世紀には、地獄の話は一般化していたのであろう。と勝手に想像している。
2008年5月11日
人は旅をして気をもらう (4) 鳴門
旅
§ 壮大なる偽物絵画を観る! ④ 大塚国際美術館
2つ目の色は赤である。いわゆるポンペイの赤である。これもフレスコ画である。これはヴェスヴィオス火山の噴火で埋もれてしまったものから発掘された家屋の一室に描かれていたものである。ポンペイはイタリアのナポリ湾に臨む古代都市で、前4世紀以来繁栄し、のち一時ローマに反抗したという。この都市の最盛期の紀元79年、ヴェスヴィオス火山の大噴火で埋没してしまったという。ポンペイは、現在、当時の建造物・生活様式・美術工芸などを知る貴重な史跡となっている。
この壁の赤は、独特な色合いを持っているが故にポンペイアンレッドと呼ばれるのであろう。一度みると忘れ難く印象に残るレッドである。やや黄色味を帯びた赤が壁全面に塗られ、その前にたたみ1.5畳位の大きさに区切られた塀の中に様々な人物の所作と表情が描かれている。西欧の中世は誰が言い始めたかのか “ 暗黒時代 ” といわれ、その時代の絵画には、人間の息吹が感じられないばかりか、仮面様顔貌ばかりが羅列されて、ぞっとする。しかし、このポンペイの 『 秘儀の間 』 の人物像は生きている。まず、顔に表情がある。眼付が実在の人物を想起させる。恐らく、この部屋は、当時のこの地域の統領か最高権力者かあるいは支配者の館か、日本で言えば官邸の類の、一室なのかもしれない。秘儀の間と名付けた以上、この壁画にはその秘儀の内容が描かれているのであろうが、ついにその説明には出会わなかった。
500円~1000円のイヤホーン付きの解説の中にはその説明があるのかもしれない。私、松本文六は他人の解釈よりもまず自分自身の五感が先だという想いで、このようなイヤホーンは使わないことにしている。そのうち、秘儀の解説にどこかで出会うだろう。
色は、以上の2つが忘れえない色として記憶された。
これらは、いずれも環境展示であるが、その別の一つに、『 ゴヤの家 「 黒い絵 」 』 がある。これが、また強烈な衝撃を観る者に与える。
1819年72才のゴヤはマドリード郊外に家を購入した。それは “ 聾者の家 ” と呼ばれ、そこの壁に “ 黒い絵 ” の連作がなされている。食堂やサロンの壁合計14室が描かれている。この “ 黒い家 ” の連作は、ロマン主義の巨匠として、そして宮廷の主席画家としての時期に描いた 『 裸のマヤ 』 や 『 着衣のマヤ 』 とは別人が描いたのではないかと思われるような絵の表情で黒い怒りが一挙に噴出しているような連作絵画である。ゴヤは、1792年に大病を患い、それが原因で聴力を失い、ついには全聾者となってしまった。1786年に国王付画家となり、1799年には宮廷主席画家となり、社会的地位と名誉も得ている。しかし、この聾は彼を何よりも思索的な人間へと押しやり、『 ロス・ガブリチョス( 気まぐれ ) 』 という版画集の中で、その大きな展開が見られているという。このような彼の精神環境の中で、ナポレオン率いるフランス軍の祖国スペインへの度重なる内政干渉に、民家の暴動や市民の蜂起が次々と見られ、ついには、1808年5月対仏独立戦争が起った。ゴヤは、直接戦いの渦中に踏み込んではいなかったが、戦争の悲惨さに、その人生観をさらに大きく転変させられたと推理されている。62才の老身は、憤りに震え、1810年に銅版画 『 戦争の惨禍 』 に着手している。しかし、この銅版画は、晩年フランスに亡命したせいなのか、生前には公開されなかったという。それは、彼の名声と社会的地位がそうさせたのかもしれない。ちなみに、『 1808年5月3日 : リンシベ ・ ピオの丘の銃殺 』 の絵は、1814年、ナポレオンがワーテルローで敗れ、スペイン王が復位した年に自ら 『 5月3日 』 とともに、国王に申し出て描いたものだという。
“ 黒い絵 ” の連作は、1820~23年にかけてなされたものという。その中の、『 自らの子を食らうサトゥルス 』 という絵は、思わず後ずさりを迫られるような迫力がある。ゴヤの家は “ 聾者の家 ” と言われ、現実の部屋も灯りがなかったのか、暗闇の中に展示されているので特にそう実感したのかもしれない。子の首から上はすでにサトゥルスの口の中を通り抜けて、血がしたたり落ちている様は、まさに戦争が人を食い殺し、人が人を殺すというのが戦争であり、戦場はその凄惨な場である。そのような悲惨なことを再び繰り返すべきではない。それは人間は許すべきではないのだとゴヤが雄叫びしているように聞こえる絵である。まさに、この “ 黒い絵 ” の連作は、ピカソやゲルニカ以上に観る者に反戦を呼びかける絵でもある。
“ 5月3日 ” の原作を、スペインのプラド美術館で直接眼にしている連れあいは、この陶板は迫力に欠けると囁 ( ささや ) いていたが、確かに、私、松本文六が観てもそんな感じがした。何がどう違うのか、やはり本物と比べないと判らないのかもしれないが……。他の陶板に比し、これは失敗作かもしれない。
2008年5月10日
人は旅をして気をもらう (4) 鳴門
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§ 壮大なる偽物絵画を観る! ③ 大塚国際美術館
“ 大塚国際美術館 ” の展示方法は3種類。 ① 環境展示 ② 系統展示 ③ テーマ展示と分けられている。
①は、古代遺跡や教会などの壁画などを、その空間を丸ごと再現している。②は、時代の変遷に沿って、美術史的に理解されるべく配置されている。古代・中世・ルネサンス・バロック・近代・現代の順に。③は、人間の生活に沿った、また、美術談議で話題となるような形での展示がなされている。空間表現・だまし絵・時・生と死・食卓の情景・家族・運命の女・レンブラントの自画像という具合に。
印象に残ったものを順次述べたい。
①の環境空間まるごとには、この旅の記憶の冒頭に述べたシスティーナ礼拝堂の天井画と壁画の他、12ヵ所の壁画と建物ごと移設した形となっている。
ミケランジェロのフレスコ画、『 天地創造 』 と 『 最後の審判 』 の展示は、吸い込まれてゆくような絵画空間で、これが地下3階の正面入口の真前に置かれている。美術の専門家の誰もが考えそうな極く当たり前の演出であるとも言えるが、この演出は入館第一歩で入館者の度肝を抜かすことを想定した心にくい演出とも言える。そのすごさは直接自らの眼で観た者しか理解できないと思われる。本物はもっと壮観なのかもしれない。同僚の医師が、イタリア旅行の折、2時間列を作ってやっとシスティーナ礼拝堂に入り、このフレスコ画を見たとたん、2時間立ちっぱなしに待った疲れが一挙に吹き飛んだと語っていた。まさにそうだろうと頷 ( うなず ) ける。日本のみでなく、世界のどこにもこれだけ壮大な天井画と壁画はないであろう。江戸時代の日本の城の中の襖絵を全部あわせても、これ程のスケールのものにはなるまい。天井画の 『 天地創造 』 は 823 ㎡、壁画 『 最後の審判 』 は 195 ㎡ である。
最近、加藤清正公の熊本城の “ 客間 ” が、復刻再現されたというが、どれ位のスケールのものか、今年中に一度観にゆきたい。
さて、システィーナ礼拝堂は別格として、松本文六にとって強烈な印象を残したのは、鮮やかな色彩を施した2つのフレスコ画である。
まずは、スクロヴェーニ礼拝堂の天井のフレスコ画の澄んだ濃紺の青である。そのドーム状の深い青の空に*がきれいに等間隔に配され、満月とおぼしき円形が大小10組規則正しく描かれている。空間を2つに分けて一方の大円形にはキリストが、他方の大円形の中には聖母子像が描かれ、小さな4つずつの小円形には8人の使徒(?)が描かれている。当初、その円形には何が描かれているのか、この深い青色に吸い込まれてしまって全く気がつかなかった。
ピカソの青の時代や、ゴッホの一部の絵に使われている青は、もしかしたら、このスクロヴェー二の青を念頭に置いていたのかもしれない。
この深い深い青は、北イタリア、パドヴァ市にあるスクロヴェーニ礼拝堂の天井画である。 “ 美術巡礼者 ” にとっては一つの “ 聖地 ” だという。この壁画には 『 聖母マリアの生涯 』 12場面、『 キリストの生涯 』 25場面が描かれている。作者はかのジョットである。ミケランジェロの大胆なたくましい人間像と、生の息吹の感じる画面に比べると、全く異質で、ジョットのこの青の部屋の壁画は、簡素でひきしまった構図で幾何学的模様が、静謐 ( せいひつ ) な空間を生み出している。
ジョットは、《 中世末期の死せる絵画の復活者 》 と称され、《 人間的共感にみちた生気ある場面を創造 》 して、ルネサンス絵画の礎を築いた画家と言われているという。見事である。一日中この空間にいてもいいような空間である。
しかし、このスクロヴェー二礼拝堂を建立したエンリコ ・ スクロヴェー二の父、レジナルドは高利貸しで財をなした人物で、同時代のダンテの 『 神曲 』 にあさましい姿で登場するらしい。エンリコは、父の罪の消滅を願ってこのお墓を建てたと言われている。この深い深い静謐 ( せいひつ ) には、エンリコの静かな深い想いが込められているのかもしれない。
2008年5月 8日
人は旅をして気をもらう (4) 鳴門
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§ 壮大なる偽物絵画を観る! ② 大塚国際美術館
この “ 大塚国際美術館 ” は、1998年3月、大塚製薬創立75周年記念事業として設立されている。この3月で10周年を迎えたことになる。
この壮大な複製美術館の総指揮したのは、大塚製薬2代目社長の大塚正士(故人)で、そのきっかけは、当時大塚化学の技術部長の正士氏の末弟大塚正富氏と技術課長の板垣浩正氏の提案であったという。それは、1971年、両人が正士氏に一握りの砂を持ち出し、これでタイルを造りたいという提案だった。この砂は鳴門の砂で、紀伊水道に面して白砂海岸があり、その白砂だった。いろいろな経緯を経て、タイルの製造が始められ、ついには、1メートル角のタイルを作っても歪みや割れが一つもなく、20枚作れば20枚とも100%合格の商品に仕立てあげたという。この時期、アメリカにおいては20枚中19枚が不良品となり、1枚のみが合格するということだったらしく、この大塚のタイルはすごい技術力によったものであったらしい。
そしてタイルの品質をあげるため、滋賀県信楽町の会社と合併し、さらに高度の技術開発を目差したという。この会社は、あの石油ショックのあった1973年に設立されている。この時期は、石油価格が12倍にも高騰し、ビルの建設が全面停止になるという時代であった。そのため、会社は設立したが、操業ができなかったという。そのような苦難の中で、役員会で、《 陶板に絵を描いて美術品の方に移行しよう 》 という意見にまとまり、手始めに尾形光琳の 『 燕子花 ( かきつばた) 』 を試作した。上出来であったらしい。そのような研鑽とともに、1973年には、2万点に近い陶板の絵付の色を開発し、ついに、ピカソやミロの有名絵画を、陶磁器に、しかも原寸大に複製することに成功した。このような技術は、日本だけでなく、世界にも例のない大型美術陶板の開発で、大塚の名を世界の美術界にとどろかせることになった。
ともかく、陶板なので、時代が少々経とうとも、1000年、あるいは2000年後も色はあざやかに保たれ、補修はほとんど必要としない。システィーナ礼拝堂の壁画の一部をとり出して別に展示していたが、これを手で触れることもできる。私の好きな、ルオーの絵画が1枚だけあったが、その厚塗りの感触を体験することができ、この探求のすごさにはさすが驚いてしまった。手で触れて、エェーという感嘆のため息が出た。これまでの美術館では、ガラス越しにしか見れなくて、しかも写真も撮れない。しかし、ここでは写真も撮れるし、触れることもできる。美術に関心のある小中学生にはとてつもない勉強の場になるのだろうが、そこまでの企画はなさそうである。
原寸大で、1000余点の陶板複製名画が掲げられているので建物も壮大である。地下3階から地上2階までビッシリと絵が系統的に展示され、古代遺跡 ( 例えばポンペイの埋もれていた壁画 ― ポンペイの赤 ― が再現されている ) や教会などの壁画を環境空間にとそのまま再現しているのは、臨場感を味わえる立体展示とも言える。また、様々なテーマ展示もなされている。
レオナルド・ダ・ヴィンチの 『 最後の晩餐 』 は修復前と修復後の2つが相対して展示されていて、圧巻である。
地下3階より地下2階 → 地下1階 → 1階 → 2階と進むうち、いつのまにか、本物を観ている感覚になってくるから、この大塚国際美術館はやはり、誰もが1回は観て欲しい美術館の一つだと私、松本文六は思う。欲を言えば、マチスという有名な画家の絵が一枚もないのは残念だし、西洋画ばかりではなく日本画、日本人の絵画もこういう形で一堂に集めてもらえればいいが…。しかし、そうなると、日本の各地の美術館の存在価値がうすれてしまうので西洋画に限ったとすれば、大塚正士氏の考え方に心より敬意を表したい。
2008年5月 7日
人は旅をして気をもらう (4) 鳴門
旅
§ 壮大なる偽物絵画を観る! ① 大塚国際美術館
久し振りに2泊3日の旅をした。以前から何としても行ってみたいと思っていた、徳島県鳴門市の “ 大塚国際美術館 ” を観に行った。
壮大な偽物絵画館である。古代壁画から世界25ヶ国190余の美術館の所蔵する現代絵画まで、至宝の西洋絵画1000余点が、オリジナル作品と同じ大きさの陶板として複製されたものが展示されている。これだけでは、そんな本物でないものを観ても仕方ないではないかと想う方も多いと思うが、《 百聞は一見にしかず 》 である。中にはすでに以前に本物と対面したものに比し、これは? と思うところもあるが、“ 壮大 ” さに息をのむ想いで観ていると、複製であることさえ忘れてしまった。
とにかく、順路の真先はバチカン宮殿の中のシスティーナ礼拝堂と全く同じ規模の空間に導かれる。30m もあろうかと思うドーム状の天井にはあの有名なミケランジェロの壁画がそのままの形で見えた。ここで複製という衣が脱ぎ捨てられてしまい、ミケランジェロのすごさ、天才性に息をのむと同時にウゥーンと唸 ( うな ) ってしまった。見事!という形で言葉として何と表現していいのか、この空間に完全に飲み込まれてしまったという感じである。
ミケランジェロは、教皇ユリウス2世から天井全面にフレスコ画を描くことを命令されたが、自分は彫刻家であると、当初は固辞していたらしい。しかし、この天井画は、盛期ルネッサンス絵画の最高傑作の一つとなった。おおよそ、1000㎡ のスペースに300 近い人体がひしめく大壁画を、彼はほとんど助手を使わずに独力で完成させたという。足場をつくり、天井を見上げつつ、これだけのフレスコ画を描くには相当な体力と技量がない限り不可能であろう。それを、独力でやったというから、……。この天井画 『 天地創造 』 ほかは1508年から12年、4年間で描いたという。
また、天井画を描いて約四半世紀後の1936年から5年かけて礼拝堂の奥壁に 『 最後の審判 』 を描くことになった。これは、動乱の時代のローマに対してのキリスト教の視座からの世界の終末を見透かしたものだと言われています。ここには、《 静かに世界の終末を迎えるのではなく、神の裁きの前で動乱し、絶叫する人類 》 が描かれています。破局の時代、危機の時代の精がここに映し出されている。現在の日本にもピッタリ合う精神的光景でもあると、私、松本文六は想う。
空間を本物と全く同じくするものがいくつかあった。ポンペイの 『 秘儀の間 』 が再現され、ラファエロの生地ウルビーノにあるフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの書斎もまた原寸のまま展示されている。ジョットの壁画のあるストロヴェーニ礼拝堂もまた圧倒的な存在感を示していた。紺碧の星空に紛 ( まが ) う天井は現代人が忘れてしまった空を想い出させる。
壮大な偽物というよりは壮大な複製という方が的確である。
2008年4月 6日
人は旅をして気をもらう (3) 白浜
旅
§ 白浜はまゆう病院 ②
4月4日、白浜のホテルに着いたのは夜の9時。病院を出たのが午後1時だったから、8時間かかった。東京よりも遠い。東京の場合、空港まで高速を走って行っても東京の空港まではおおよそ早くても4時間半はかかる。大分から関西空港、和歌山市を経て白浜に行くとしても、待ち時間などを考えるとそれでも6~7時間はかかる。機中の居眠り時間を考えると、JRの利用の場合には移動距離と時間が少ないので、その方がいいと考え、全行程をJRにした。
夜に着き、ビールが飲みたいなと部屋の冷蔵庫を開けると、350ml 250 円のサッポロビールがあった。早速1本あけ、少し物足りないなと冷蔵庫をあさっていたら、梅のチューハイ350ml 缶があった。これは200円。
チューハイを選んだのは、58kcal という数字を眼にしたからである。因みにビールの方は350ml 当たり140kcal と明記されていた。チューハイを飲むと甘い !! これは58kcal どころではないと改めて、うめ缶の文字をよく見直すと、何と! 《 100ml 当たり 58kcal 》 と記されている。計算すると350ml → 203kcal ということになる。
商売人はどうしてこんな姑息なことをするのか! と憤りとともに商売人の儲けるためには人の錯覚さえも利用するという心情にニヤッと笑い敬意を表したくなった。それは私、松本文六が “ 詐欺まがい ” なものにひっかかったことに対する一種の自嘲の反映でもあった。
2008年4月 5日
人は旅をして気をもらう (3) 白浜
旅
§ 白浜はまゆう病院 ①
4月5日、私、松本文六は和歌山県の白浜の地にいる。何で?と誰もが多分考えられるかなあと思う。
白浜と言えば、はるか昔の新婚旅行のメッカでもあった。九州の宮崎がそうであったように。私が新婚旅行でここに来た訳ではない。 《 いいんじゃない、是非進めるべきだ 》 という私の一言が、私と白浜の “ えにし ” を作ったのだ。
それは、1992年のいつだったか、私の友人 E 君から 《 白浜にある国立病院が民間に譲渡されるらしい。これを何らかの形で僕たちの地域医療の根拠地にできないか、同じ志を持った若い医師たちで創ると面白いのだろうけどな 》、という話が私にあった。
早速、E 君とある日、旧国立白浜リハビリテーション病院のある、当時の白浜町の現地を訪れた。それは白浜町の空気のきれいな高台にあった。しかも敷地が広い。これであれば建て替えるにしても充分な土地があり、新旧の建物を有効に使える。しかも、ここは温泉地である。と、あれこれの想いが私、松本文六の脳をめまぐるしく走った。 《 これはいいんじゃあない、是非進めようではないか 》 とE 君に私は答えた。
その後のE 君の行動は素早かった。たちまち、中心となる若い医師2人を説き伏せて、夢がふくらんだ。E君が仕掛け人で、私は意見を求められたので答えただけであったが、いろいろな事情で、私が前面に出ることになってしまった。
白浜町の当時の町長さん、眞鍋清兵衛氏がこの構想に乗って来られて、第3セクターでやろうということになり、着々と準備がすすめられていた。ところがあてにしていた大阪の医療法人が、どういう訳か手の平を返してしまったので、計画は完全にお手あげの状態になってしまった。準備万端整い、医療法人許可の内諾を得ている時点、大阪の医療法人が手をひいてしまったので、町長さんも困り果ててしまっておられた。県との話で財団法人の認可がおりる直前だったので町長さんは大変慌てておられ、天心堂に何とか手助けをしてくれないかと自ら大分の私のところまで来られた。
この時、私は大分医科大学に入院していた。忘れもしない、1992年11月18日午前零時過ぎ、国道10号線の拡幅工事中の道路脇を歩いていて突如4メートル下の荒地に落ち、肋骨数本・左膝蓋骨・右腫骨 ( かかと ) 骨折と胸部の縦隔洞血腫という大怪我をした。
午前0時40分頃わが天心堂へつぎ病院に搬送され、救急処置がなされたらしい(救急車に乗せられる直前から翌朝9時過ぎまで意識なし)。11月19日、目を覚ましたのは旧へつぎ病院5階の病室のベッドの上であった。昼頃になって、もしかしたら開胸手術が必要になるのではないかと、改めて救急車で当時の大分医科大学病院に運ばれた(現大分大学医学部附属病院)。
だから、当初の2週間は胸部外科の病室だった。幸いなことに縦隔洞血腫は落ちついたので、3週目より骨折治療のため整形外科に移った。その最中に、町長さんが病床に来られ、天心堂からの援助の要請を受けた。
少し時間を下さいと即答を避けたものの、協力すべきだと判断し、白浜医療福祉財団法人への出損金を拠出する指示を、当時の事務部長にした。これは理事長としての松本文六の独断であった。12月下旬の退院直後は大変であった。背任行為と散々批判された。場合によっては理事長を辞してでも、自ら借金してでも支援する覚悟で話をつめて行ったので、何とか “ 背任 ” という汚名はまぬがれた。
今日は、その白浜医療福祉財団法人白浜はまゆう病院の5つ目のサテライト診療所、川添診療所の開所式のためにこの白浜の地に来た。今や、この白浜はまゆう病院は和歌山県南部の地域包括医療の中心的医療機関として地域からの厚い信頼と厚い信用を得ている。
“ えにし ” があってこそ、その地を何度も訪れる。それは人間の心情である。
2008年2月29日
人は旅をして気をもらう (1) 五島列島
旅
§五島列島 ⑤
たった2日の旅の想いを長々とここまで記すとは…。
元々は椿の里をみに行ってみようかというところからこの旅は始まった。五島の椿は、玉之浦椿といって、花弁の外側が白の白覆輪を持った椿である。時期が早かったのか、椿の原生林に行ってもパラッパラッとしか見れなかった。
キリシタン弾圧と迫害の歴史とは別に、五島は、遣唐使にも関係した地であるということで、改めて、日々の診療の中で、歴史と程遠くなっていることに唖然とさせられた。日常の中に埋没してしまって、感性が少々鈍くなっているのではないかと実感させられた旅であった。
ところで、旅の中で、その地方の食は一つの楽しみでもある。小生、松本文六は、食べ物の好き嫌いは全くといっていい程ないので、海外旅行でも、その地の食べ物を食べ、日本食の梅干しやインスタント味噌汁などは持ち込んだことは全くない。
五島での味覚はなかなかのものであった。夕食はホテルではなく、バスで20~30分程離れた海水浴場傍の椿茶屋というところでとった。3分の2畳程の大きな囲炉裏に4脚の大きな網を据え、その上で魚・貝などを炭火で焼く。最初の焼きあがりは鯵と緋扇貝と骨付きのカシワだった。鯵が家で食べるのと違って軟らかく香ばしかった。獲れたての魚は焼けばこんなに軟らかいのかと認識を新たにした。他に大きなイカを10人で分け、野菜、ソーセージなど焼肉をするように炭火で焼くのである。最後には五島牛が出たが、軟らかいのに驚いた。特段の手当はしていない肉ということだった。この軟らかさを知ると、アメリカで革靴をかじっているのではないかと思ったステーキのことを想い出した。椎茸、野菜他すべて地元産のものということで何か嬉しくなってしまった。これこそ地産地消だ。土産に買ったカマボコは色あいはよくなかったが、一切の添加物のない五島産のもので、食べると、これがまた味がいい。近所で購入したカマボコとどうしてこうも差があるのかと感心してしまった。
椿には縁がなかったが、キリスト教の弾圧と迫害の歴史と五島の食文化に接することができたのは、わずか2日間であったが、何か心が豊かになったような気がしてひどく嬉しくなった。
2008年2月28日
人は旅をして気をもらう (1) 五島列島
旅
§五島列島 ④
五島は、日本のカトリックのメッカという気がする。あの狭い島々の中に何と五十余りの教会があり、すさまじい弾圧の歴史を伴っているのであるから。
日本とカトリックの出会いは、ポルトガル人が種子島に上陸した1543年のわずか6年後の1549年であった。この年の8月15日をフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した日とするのがカトリック関係者の中での了解事項らしい。ザビエルが1546年、マラッカでヤジロウという日本人に会って日本への布教を思い到ったという。
その後宣教師が渡来し、布教活動を行い、徐々に信徒が増えていったという。1562年、五島の領主宇久純定が病気のため宣教師トーレス神父に医者の派遣を依頼。日本人医師ディエゴを派遣したところ、純定は数日で全快し、五島での布教の許可をしたという。ある本によると、1563年、肥前大村藩主大村純忠が改宗したのをはじめ、高山右近、大友宗麟などが相次いで受洗したという。
しかし、1587年、豊臣秀吉は九州箱崎 ( 福岡市 ) で突然宣教師追放令を出し、キリシタン弾圧に乗り出した。その10年後の1597年に 《 日本・26聖人 》 殉教。この時、五島出身のヨハネ草庵も殉教する。
さらに、1614年1月31日、徳川家康はキリシタン禁令を発布。全宣教師を追放し、密かに宣教を続けていた神父や修道士、彼らをかくまった信者たちは、次々に処刑された。踏み絵制度などで、この禁教令は年々厳しさを増し、また、懸賞金つきで宣教師を捕え処刑したりした。これらの制度は250年間続いたという。
しかし、この間、信仰は深く深く潜行し続けて行った。このような信者を “ かくれキリシタン ” とか 《 はなれ 》 とか呼ばれ始めたのはいつ頃だったのだろうか? 表向きは仏教徒を装いながら、秘密裏にキリスト教信仰を守り続けた。この “ かくれキリシタン ” が歴史の表舞台に立ったのは、1865年2月19日、長崎にフランス寺と呼ばれた大浦天主堂の建物ができた時である。キリスト教を密かに信仰していた農民十数名が自らキリシタンであることを告白したことに始まるという。
その3年後の1868 ( 明治元 ) 年に先に述べた久賀島の “ 牢屋の窄 ( さこ ) ” 事件が起きている。また、1870 ( 明治3 ) 年には浦上のキリシタン約3000名が流刑にあったという。
ところが、このようなキリスト教徒への弾圧と迫害が人権侵害として外交問題に発展し、1873 ( 明治 6 ) 年に250年以上続いたこの “ 禁教令 ” は終りをつげた。
五島にキリスト教を伝えたのは、アルメイダとロレンソと堂崎天主堂の庭園に記されているが、このアルメイダが大分に南蛮病院を開いたというアルメイダと同一人物かどうかは、小生、松本文六は知らない。
― つづく ―
2008年2月27日
人は旅をして気をもらう (1) 五島列島
旅
§五島列島 ③
福江島の北にある久賀島には、すさまじい建物があった。楠原の牢屋跡で、1868年、ここにキリシタン200名が投獄されていたという。
幕府は、キリシタン撲滅の一手段として宗門寺法を定め、子供が生れると、宗門帳に記入させ、死ねば僧を招き、お経をあげ 『 キリシタンにあらず 』 の証明がなければ葬式も許されなかったという。また、2年に何回か、お寺に参り、僧にお布施をし、神棚を設け、仏壇を備え、香・花を供えることを義務づけたという。
この法式に則 ( のっと ) ることは、キリスト者には耐えられず、これを拒否したため、1868 ( 明治元 ) 年の迫害が始まったという。
1868年11月12日、23人のキリシタンが捕えられ、福江城下の牢に入れられ拷問にかけられた。その拷問には、呵責、火責め、算木責、晒し責、押しから責、竹責、十手責、氷責、水責などだった。
- 算木責 … 三角に削った木を3本並べ、その上に正座させ、大石 ( 2人で持ち上げうる位のもの ) を2個膝の上に重ねる。石をゆさぶって痛めつける。
- 晒し責 … 裸にして木にしばりつけ、吹雪の夜、丘の上に立たせる。
- 押しから責 … 算木責の一種で、算木の上に膝を立てさせ、下腱に石を積み、腱と脚の間に棒をさし入れて前後に動かして苦痛を与える。
- 竹責 … 周囲9~12センチ、長さ150センチ位の青竹で力まかせに背中や胸を叩く。3~4回叩くと割れてしまう。
- 十手責 … 耳、口等に十手を押し込む。鉄の十手で叩く。
- 火責 … 真赤に焼けた木炭を掌にのせ、火吹竹でプープー吹く。火は掌の上で燃え、皮膚を焼く。
その後、全島のキリシタンの老若男女、幼児までが、合計 200人近い信者が、前の23人とともに久賀島の牢にとじ込められた。その牢の広さは6坪で、中央を厚い板で仕切り、男牢と女牢に分け、二百数十人を押し込め、ピッタリと戸を閉め切ったという。言語に絶する状況であったという。食べ物は小さなさつまいもを朝に一切れ、夕に一切れ支給。老人、子供、幼児は飢えと寒さのため次々に死亡。大小便たれ流しだった。最初に死んだ79才のパウロ助市の死骸は5昼夜牢内に棄ておかれていたため、大勢に押し潰されて平たくなっていたという。このような状況の中で蛆虫が湧き、中には13才のドミニカは下腹部を噛み切られて死亡したという。
まるで、ヒットラーのユダヤ人の虐殺のガス室よりももっともっと悲惨で残酷な恐るべき弾圧だった。
牢内に囲まれること8ヵ月、一般信者はすぐ解放されたが、リーダー達はそれから2年有余後に解放されたという。その間牢内で死亡した者39人、出牢後死亡した者4人を数えたという。
35才のリーダー惣五郎の拷問はすさまじく、6種類の拷問にかけられたが、それらすべてに耐え、《 どうされてもキリスト教を棄てませぬ 》 と最初の信念を守り通したという。
このようなキリスト者の固い志にまみえると、かつて60年安保世代のリーダーの1人だった故 島成郎氏の言葉を想い出す。1970年代半ば、注射による筋短縮症の検診で訪れた沖縄の地で、保健師さんの紹介でお会いした折、何の話だったか想い出せないのだが、《 変な左翼よりもキリスト者の方がよっぽど信用できるよ!》 という言葉だ。 “ 牢屋の窄 ( さこ ) ” の狭い空間の中で信念を曲げなかった人たちの姿と島氏の言葉が二重写しとなって目に浮かんで来る。
すごいなあ! と想う。このような話を幼児期から聞いた子供達の目はいつまでも澄んでいるのだろう。
― つづく ―
2008年2月26日
人は旅をして気をもらう (1) 五島列島
旅
§五島列島 ②
今でこそ、信教の自由が保障されているが、昔はとんでもないことが行われていたようだ。高校の世界史の歴史の中で、キリスト教がイスラム教徒を異教徒として討伐するために、1096年から13世紀後半に至るまで7回にわたって行われた遠征を教わった時、キリスト教は愛の教えを説いているのに、どうしてこのようなことをしたのかとひどく途惑い、大きな疑問をもっていた。それについては、教師は何も教えてくれなかった。
大学に入学して、留学生に誘われてキリスト教会に一時出入りしていたが、牧師と司教の区別も判らないまま、それを止めてしまった。それは、そこの牧師と司教があまりにも俗っぽいことに気がついたからである。それ以来、小生、松本文六は彼らのことをエセ坊主と呼んで、彼らと親しくなる気にはなれなかった。その後、真摯なキリスト教徒にお会いして、彼らをエセ坊主と呼ぶのはやめてしまった。
ちなみに、牧師はプロテスタント教会の聖職を指し、カトリック教会のそれを司教という。
また、豊臣秀吉が、1587年に宣教師追放令を発布し、キリシタン弾圧を始めたのは、彼らが封建支配に反対し、暴動を起すのではないかと恐れたと高校時代に教わったが、その弾圧のすさまじさには、この年65才になってはじめて知ることとなった。だから、人は旅をやめられないのだと思う。
福江島の堂崎天主堂には “ 26聖人 ” の1人となって殉教した 『 五島ヨハネ像 』 をはじめとした五島のキリシタンの歴史を語る資料館と記念庭園がある。この五島ヨハネ草庵は、1597年大阪で捕えられ、長崎まで800キロ、33日間にわたって歩かされ、十字架上で殉教したという。その時19才の青年であったという。時に1597年、関ヶ原の戦いの3年前である。
1614年、徳川幕府のキリシタン禁止令発布。五島におけるキリシタン弾圧も熾烈さを増し、多数の殉教者を出しながら壊滅状態となり、約160年の間信徒は途絶えてしまったという。
1797年、弾圧の激しさとともに大村藩の外海 (そとめ) から五島藩への農民の移住が行われ始め、再び五島のキリシタンの歴史も始まったという。新天地での平和な生活を夢みていたらしいが、《 聞いて天国、来てみりゃあ地獄 》 だったという。それは荒れた土地の開墾しか許されなかったからだ。
ガイドの説明を居眠りの中で聞いていたら、このあたりの事情は遠藤周作の 『 沈黙 』 に詳しいらしい。小生、松本文六は未だそれには目を通していない。遠藤周作の代表作らしいが。
― つづく ―
2008年2月25日
人は旅をして気をもらう (1) 五島列島
旅
§ 五島列島 ①
23、24日の2日間、個人的な休暇をとって、五島列島、福江島に行ってきた。椿をみたいということで連れあいと出かけた。
長崎港に午前11時に集合ということで、長崎までは車で行くこととした。
片道240キロ位だろうと推測して出発したが、実測273キロだった。6時40分に自宅を発ち、長崎港に9時25分に到着。途中、武雄川登で一休憩して行ったので、平均時速約99キロで行ったこととなる。
船で福江島に渡るので遅れたら置いてきぼりにされると考え、余裕をもって到着。高速を出て、すぐのところに長崎港があった。港の周辺を散策しながら11時まで過ごす。海は時化 ( しけ ) ており、連れあいは船酔いに陥っていたが、軽くてほっとした。小生は、元気そのものであったが、坂本龍馬が洋船にあこがれ、勝海舟とともに行動した時にも、船に一時は酔ったことがあるということがふと憶い出して、当時の船であれば、このような時はかなりひどい船酔いに陥ったのだろうなと想った。
あとで聞くと、3~4メートルの波だったらしく、小生たちが出発したあとの船は出港できなかったという。運が良かった。
五島列島で想い出すのは、民主党に五島正規という衆議院議員がいた。ある時、彼に、五島列島に関係があるのですか? と聞いたところ、そこの出だということであった。福江島に残る城、最後の殿様は五島家だったという。
彼はクリスチャンであったかどうか、当時、小生、松本文六は五島の歴史を知らなかったのでそこまで踏み込んで聞きはしなかったが、この五島はいわゆる “ 隠れキリシタン ” の発祥の地だったようである。
ひどい迫害を受けた土地でもあるが、未だに福江島の住民の6分の1がクリスチャンであるという。地図でみせられた教会の多さに瞠目 ( どうもく ) させられた。
― つづく ―
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