文字の大きさ
文字サイズを「小」に変更する
文字サイズ「中」に変更する
文字サイズ「大」に変更する

文六携帯メール会員募集中!

文六ホームページを携帯で見よう!

後援会情報

日本の医療の流れを変える会

HOME > 文六つうしん > シリーズ投稿一覧

文六つうしん シリーズ別

エッセイ 1(29件)

2008年5月22日

死に場所づくり (1) - 3

エッセイ 1

§ 「水戸黄門」と老人たち ④

 生存することで精一杯であった

続きを見る >

2008年5月21日

死に場所づくり (1) - 2

エッセイ 1

§ 「水戸黄門」と老人たち ③

 21世紀の保健・医療・福祉を語る方々は、まず今の高齢者がどういう人生を送って来た人々だったのか? ということを改めて認識する必要があると思う。
 日本が第二次世界大戦に敗北したとき、相撲を愛し、水戸黄門を愛す老人たちは一体何歳だったのだろうか? 敗戦の年に20歳だった人は今68歳、30歳だった人は今は78歳、40歳だった人は今は88歳。大部分の庶民は予想だにしていなかった敗戦という事実にそれこそただ呆然となり、一時は生きる希望すら持てなかったという状況から、それに伴う社会的混乱と食糧難の時代を懸命に生き抜いた人々 ―― このような世代の人々が、今日ある世界一豊かな国日本の礎 ( いしずえ ) を築いてくれたという事実を私たちは決して忘れてはならないのではなかろうか? ( このような時代をかいくぐって大儲けした人々は国や私たちが何もしなくとも生きてゆくには十分な貯えを得ているので、この種の人たちは私たちの視野の外にある )
 このような世代の人々が今老人保健施設に入所し、老人保健法の対象となっている。にもかかわらず、国はこの老人たちにあまりにも冷たい。自己の保全のためには金をかけても、このような老人世代をバックアップすることには金をかけようとはしない。その努力さえもしない財源論争には私は何かおぞましいものを感じる。

*初出 月刊 総合ケア Vol. 3 No. 9 1993.9

2008年5月20日

死に場所づくり (1) - 1

エッセイ 1

§ 「水戸黄門」と老人たち ②

 現在、21世紀の保健・医療・福祉に関わる議論がかまびすしい。超高齢社会へ準備としてのそれとともにその財源をどう捻出するかということでとりわけかまびすしい。
 私はそのような議論の中で決定的に欠落していることが一つあると思う。超高齢社会へ向けての準備は高齢者予備軍が主体であるので、自らの老後として捉えている限りにおいては別に批判されるものではあるまい。また、財源論にしても、老人に対して支出される枠を拡げないという前提の議論であればあるほどそれはかまびすしくなるのは理の当然である。しかしいずれも、当の高齢者の立場での議論は極めて少ない。否皆無のような気がしてならないのである。
 明治の人たちはその国創りに際し100年後の願望を三つ述べたという。100年後には世界で一番学問教養のある国になりたい。100年後には世界の一番長寿の国となりたい。100年後には世界で一番分限者の国になりたい、と。今それは曲がりなりにも達成されている。しかし、その曲がりなりにも達成されている世界一の教育・健康・経済の中身が今問われているのではなかろうか? いずれにも魂がない。一貫した哲学がそこにはない。人間の心の琴線にふれる教育や医学・医療あるいはやさしい環境はむしろ置きざりにされているのではないのか?

*初出 月刊 総合ケア Vol. 3 No. 9 1993.9

2008年5月19日

死に場所づくり (1)

エッセイ 1

§ 「水戸黄門」と老人たち ①

 私の仕事部屋は、へつぎ病院とは60m隔った老人保健施設陽光苑の3階にある。へつぎ病院の診療のために陽光苑の階段を日に何度となく昇り降りする。その階段の降り切った2階と1階のところに入所者の食堂がある。食堂とはいっても、部屋として独立している訳ではない。談話コーナーも兼ねているので大きなテレビも置かれている。
 私の陽光苑との接点は、毎日の階段の昇降の折に出くわす入所者との出会いや、隅々眼に入るいろいろな場面の光景と、1か月に1回行なう理事長としての回診のときに得られる。この “ 接点 ” の中で気づいたのは、入所者のテレビに見入っている姿に波があることだった。ポツンと一人しかテレビに見入っていないこともあれば、何人かがいろいろな姿勢でたむろして見ていることもある。どういう番組に関心があるのかな? と観察していると、「水戸黄門」と「相撲」に最も人気があるようである。
 子どもたちは、いずれにもそれほど関心を示さない。ファミコンによるゲームのほうがずっと楽しいからである。中学生も高校生も大学生も、大部分は、現に 「 相撲部 」 や 「 演劇部 」 に属している人以外で、「 相撲 」 や 「 水戸黄門 」 に見入ることはほとんどないと思う。老人たちの間で何故それらが人気があるのかと私の娘に問うと、「 相撲は国技だし、昔から親しんでいたんでしょ。水戸黄門はいつもその結末は葵の御紋で一件落着なのだから! 」 「 プロの相撲取りなんてまずなろうと思う人はほとんどいないし、水戸黄門だってなろうとしてなれるもんではないわ。この二つの番組のキーワードは、観る側に常に安心感があるということなのよね 」 という答えが返ってきた。

*初出 月刊 総合ケア Vol. 3 No. 9 1993.9

2008年5月17日

日記

エッセイ 1

§ 老人力を結集しよう!

 本日、5月17日、正午から街頭宣伝をすることになっている。
 しかし、午後2時半からある団体より、医療講演を依頼されており、その草稿も充分できていないとあって、街宣まで準備を完了するという慌しさであった。
 本日の街宣場所は、大分市郊外の団地で11時30分には出発しなければならない。8時半に天心堂法人本部の朝礼を終え、9時から、過去の講演のパワーポイントを選び出し、秘書に書き替えと上映の準備を整えてもらい、主催者に渡す資料を作り、ギリギリ11時半の出発には間に合った。
 街宣では、ショッピングセンター前やその周辺、あるいは団地の入口近くでマイクを握った。ちょうど昼時で車も少なく、どうかな思いながら、後期高齢者医療制度の廃止を訴えた。団地の窓から首を出して最後まで聞いていただいた方もおられたし、わざわざ声を聞いて街宣車にまで来られて、頑張ってくれ!と声をかけて下さった方もおられた。
 しかし、若い女性が、許可を受けているのか?ということでスタッフにつめ寄ってきたらしい。具体的には、あまり判らなかったが…。そういう人もいた。昼食時なので、人通りは少なかったが、ショッピングセンターで買い物を済ませた方々は立ち止まって耳を傾けてくれていた。
 何となく、窓から首を出していないが、聞いていただいているな!という空気は感じた。手応えは確かにあったと思うが、自己満足に陥らずに廃止に向けて頑張りたい。
 本日から、患者さんや地域の方々に向けた、後期高齢者医療制度廃止の署名活動 ( 後期高齢者医療制度の廃止を求める請願 取り扱い団体 : 日本労働者住民医療連絡会議 大分県代表 松本文六 ) を開始した。果してどれだけ反応があるのか、この際しっかり頑張ってやろう。社会保障制度解体、国民皆保険制度解体という医師として、人間として、私、松本文六のアイデンティティのかかった問題であるので、しっかりと運動を拡大し展開してゆきたい。
 14時30分より、コンパルホールで講演をさせていただいた。参加者は高齢者の女性二十数人であったが、楽しく語れた。2時間がたちまち過ぎてしまった。終了後、《 私たちは何をすれば良いのか? 》 という質問があり、早速、日本に医療の流れを変える会に加入して下さい。そして署名活動をして下さいとお願いした。快く受けていただき、たいそう嬉しくなった。
 明日は、80~90人位の高齢者グループに、医療問題に関するお話をする機会と場を与えられている。嬉しい限りである。老人力を発揮して、世の中を変えてもらいたいし、私、松本文六は、彼らと共々変えてゆきたいものである。
 実は、私、松本文六は、昨年の11月には前期高齢者になったばかりである。

2008年5月 6日

生き場所づくり (2)

エッセイ 1

§ 二つのいのちを扱う危険性 ③

 第2の問題 《 “ 二つの生命体を同時に扱う医療 ” は医療とよべるのか? 》 を考えてみましょう。治療医学を主体とする医療は、ひとの一つの生命を対象とし、そのひとが直面している生命の危機から如何に脱出させ、その人本来の生命の維持可能状態にいかに復させるのかということをその使命としています。対象は、必ず一つの生命体です。 “ 脳死 ” を前提とした臓器移植は、ドナーとレシピエント (注) という二つの生命体に同時に関わる “ 医療行為 ” を必然的に要求してきます。このような二つの生命体に同時に関わるという “ 医学 ” は、人類が有史以来初めて直面している新たな医学であり、国民総ぐるみで討議されなければならない重い課題です。しかし、この “ 脳死 ” を前提とする医療の本質は、 < 他人の死を期待する医療 > であり、他人の不幸せを願う医療でしかありません。これは医療ではなく、成熟社会という観点からも許されない医療だと私は思います。ヒトラーや天皇の軍隊が越えてはならない河を渡り始めたとき、人類の悲劇が始まったのです。
 このことは第3の 《 臓器売買は許されるのか? 》 に関わります。いわゆる西欧諸国は、この歴史的教訓を無視して “ 脳死 ” を前提とした臓器移植を、 「 近代医学の勝利 」 として次々に手を染めてきています。その中で、深刻な臓器不足が発生し、アメリカでは、臓器売買が公然の秘密となり、他方で、酒気帯運転の緩和や、スピード制限の廃止などの、まさに時代逆行の言辞が罷 ( まか ) り通っています。また、中南米各国では、アメリカやヨーロッパでの臓器移植や養子縁組を目的とした多数の幼児誘拐が発生しています。中米ホンジュラスのジェハス大統領は、たまりかねて、1993年4月16日、臓器移植を目的に幼児を誘拐している犯罪組織の本格捜査を司法機関に命じたといいます。ホンジュラスでは、この半年間に600人の幼児が行方不明になっています。まさにおぞましい 「 臓器マフィア 」 の出現です。
 二つの生命体を同時に扱う医療について、歴史的悲劇を二度と繰り返さないために、そして人権が本当に尊重される社会へ向けて、私どもはもっと深刻に考え直すべきではないでしょうか?

注 : レシピエント (受領者の意) 他の人から提供された臓器・組織あるいは血液を移植ないし輸血してもらう人 ⇔ ドナー

*初出 月刊 総合ケア Vol. 3 No. 12 1993.12

2008年5月 5日

生き場所づくり (2)

エッセイ 1

§ 二つのいのちを扱う危険性 ②

 今、それがこの日本で起ろうとしています。 “ 脳死 ” を前提とした臓器移植の立法化の動きがそれです。この問題の核心は、三つあると思います。

  1. “ 脳死 ” はひとの個体の死か?
  2. “ 二つの生命体を同時に扱う医療 ” は医療とよべるのか?
  3. 臓器売買は許されるのか?

 私は “ 脳死 ” は個体の死ではないと思います。 “ Point of  No  Return ” は一つしかありません。従来の死の概念 ― 死の三徴候 ― で私たちが困ることは何一つありません。逆に、 “ 脳死 ” の判定基準は、世界各国ですべて異なり、科学的に統一されたものは何一つ存在しません。ひとの死は、あくまでも1回こっきりで、2回あるということ自体がおかしな話です。 “ 脳死 ” という < もう一つの死 > は、 < 生き生きとした若い新鮮な臓器を必要とする心臓移植 > などの臓器移植を行なうために、そして、移植を行なう医師の免罪のために必要とされるのです。これこそ、 “ 便宜的な死 ” の設定でしかありません。
 ちなみに、 “ 脳死 ” を前提とした臓器移植推進派の医師たちは、“ 老衰 ” に近い高齢者の “ 脳死状態 ” を語ることは決してありません。これを語り始めると、 < 移植される臓器は、生き生きとした若い新鮮な臓器でなければならない > という前提が崩れてしまうからです。


*初出 月刊 総合ケア Vol. 3 No. 12 1993.12

2008年5月 4日

生き場所づくり (2)

エッセイ 1

§ 二つのいのちを扱う危険性 ①

 “ 生き場所づくり ” の主体も、“ 死に場所づくり ” の主体も、医師である必要はありません。 “ 生き場所 ” は、基本的にはそのひとが主体的に決めることです。何らかの障害が発生し、生活することに支障を来たし、他の人からの支えを必要とし、主体的に “ 生き場所 ” を決定することができなくなったときに、 “ 生き場所づくり ” の主体は、他の人あるいは社会的組織に委ねざるを得ない情況が生まれます。その委ねる先は、医療・福祉の領域あるいは社会となります。
 未成熟な社会においては、個人の選択は許されませんが、成熟しつつある社会では、個人の選択が優先される環境が整えられつつあります。医療 ・ 福祉の領域において、障害者の選択権は拡大されつつあります。そして、成熟社会では、精神的・肉体的障害の程度や能力の差によって、差別されることは許されません。
 また、ひとの基本的人権が決して侵されてはならない社会です。私たちが、成熟社会を目指すとすれば、医療や福祉の領域で基本的人権が侵されない環境をつくるべきでしょう。 “ 生き場所づくり ” もこの原則に則 ( のっと ) って行なわれなければなりません。
 過去において、ヒトラーがユダヤ人を虐殺し、天皇の軍隊が731部隊で中国人や朝鮮人を “ 丸太 ” と称して凄惨な生体実験を行なったことや、九大医学部での米兵の生体解剖事件などの事実は、二度と繰り返してはならないおぞましい歴史的事実です。これらの歴史的事実は、いずれもこの原則に反します。一時の利己的幸せを優先して、永続的な差別 ( = 他人の不幸せ ) を生み出す事態は、どんなことがあっても阻止すべきだと私は思います。差別のある環境においては、人権は必ず侵されます。そして、差別が発生する最初の対象は多くの場合、弱者あるいは障害者です。


*初出 月刊 総合ケア Vol. 3 No. 12 1993.12

2008年5月 3日

見る・観る・聴く・嗅ぐ (22)

エッセイ 1

§ステータスシンボルの寿司

 先日、新幹線に久し振りに乗る機会があった。
 その途次、たまたま手にしたJR西日本の機関紙というか広報紙 WEDGE 4月号の中に興味ある記事がいくつかあった。
 私たちは、日常の仕事に追われ、世の中をじっくり観る余裕がないので、地球上で何が起っているのかについて、つい疎 ( うと ) くなってしまう。だから、興味ある記事に出会うと人に話したくなる。


■アメリカではゴルフ人口が急激に減っている。

 アメリカのゴルフ人口は、2000年に約3000万人いたが、現在2600万人に減少しているという。
 年間のプレー頻度も、年25回以上する人は、2000年の690万人から05年には460万人に、年間8日以上は、00年の1770万人から06年は1500万人にそれぞれ減っているという。
 プレー料金が日本と比べて大幅に安いアメリカのゴルフは、アメリカ人の気軽なスポーツとして定着していたという。だからゴルフ大国と言われていたのだ。
 ゴルフをしなくなったというのは、《 時間がない 》  《 仕事が忙しい 》 《 年金が減った 》 という経済的理由が多いという。
 このため、全米で約1万6000カ所に達していたゴルフ場も、そのうち数カ所が閉鎖に追い込まれたという。
 また、テニスやハイキング、サイクリング、スキーなどのアウトドアスポーツの人口も減少傾向にあるという。アメリカ人全体の生活スタイルに変化が生じているのではないかと、この記事は指摘していた。
 ネタはニューヨークタイムズらしい。
 私は、ゴルフをしないので、詳しいことは判らないが、このゴルフ人口の減少は、アメリカの経済が傾き出した一つの現象ではないかと想う。サブプライムローンの問題、イラク派兵などが大きく影を落としているのではないだろうか。


■寿司は外国ではステータスシンボルになってきたようだ。

 今や、アメリカやアラビア半島あるいはEUでは、寿司を食べられるのはステータスシンボルになっているらしい。このことを身近かに感じたのは、つい6カ月前だった。
 私の息子が、ニカラグア駐在の商社マンを辞めて、かつてのアメリカ イサカ大学の同級生たちとスペインで仕事をしたいと、昨年秋渡欧した。2カ月にわたって、スペインのマドリードで就職活動をしたが、それが駄目になった。息子によると、《 数年前より外国人の入国を厳しくしており、伝 ( つて ) があっても難しい。しかし、日本人であれば、日本政府関係者と寿司職人は無条件で入国を許可するんだよ! 》 と。それ程、外国では寿司がステータスシンボルとして評価されているようだ。
 つい数カ月前、佐伯の寿司屋さんがアラビア半島の王族たちに出前したというのは記憶に新しい。そこでも随分喜ばれていたというニュースがあった。
 しかし、最近、アメリカの金融界の若者や、ニューヨーカーが好んで出かけるレストランや、持ち帰り用の寿司が人気のグルメスーパーなどで一騒動が起っているという。ニューヨークタイムスでの08年1月23日号で、『 マグロの寿司に高濃度の水銀が見つかった 』 という記事が大きな波紋を呼んでいたという。
 そこには、次のように記されていたという。《 市内20店舗のマグロの寿司に含まれる水銀を検査した結果、ほとんどが1週間に6個食べると米国環境保護庁 ( EPA ) が定める摂取限度量を上回る。専門家は、水銀含有量がこれ程高いマグロは3週間に1回以上食べるべきではないと言っている。 》 と。
 このようなことは、すでに3年ほど前にニューヨークでの日本食ブームについてのある雑誌 ( 何だったけ?) の特集で、健康に良いと言われている魚にかなりの水銀が含まれているという報告がなされていた。
 BSEも問題であるが、日本人の常食とされている魚の水銀や他の物質の含有量をキチンと調べて、社会に警告する運動も必要ではなかろうか。福田首相の考えている消費者庁には、はてどうなのだろうか?
 アメリカの食品医薬品局 FDA ( Food  and  Drug  Administration ) のような権威ある組織は日本には未だない。
 日本は、今日の後期高齢者医療制度に象徴されるように、日本人自身 ・ 人のいのちを大事にし、安心して暮らせる世の中をつくるという政治風土がないということなのだろうか。唖々 !!

2008年4月30日

生き場所づくり (1)

エッセイ 1

§ 新しい医療・福祉の視座の確立を ③

 しかし現代医学の到達した地平のなかで、近代医学の成果と限界という極めて重要な2つの事項が、現代の医学教育では全く教えられていません。 「 病をみて人をみず 」、 「 木を見て森を見ず 」 という諺 ( ことわざ ) が残念ながら現在の医学教育の世界には罷 ( まか ) り通っているとしか思えません。
 “ 生き場所づくり ” とは、まさに、現代医学の到達した地平のなかで、その成果と限界を十二分に認識し、一人の患者さんを生活のなかでしっかりと支えるということだと思います。そして、その出発点は、疾病が疾病として表に顔を出さない段階で患者さんの悩みを聞き、応えなければならないプライマリケア (注) の場です。プライマリケアの現場では、大学で学んだことはほとんど役に立ちません。それは、近代西洋医学が、できあがった疾病概念から出発する方法を最優先にしているからです。したがって、疾病概念に相当するものを見つけることができなければ、その医師を手当てを放棄せざるを得ません。現実の社会のなかには、疾病概念として確立していない前疾病状態というものは際限なくあります。またプライマリケアの現場では、慢性疾患の急性期を乗り越えた患者さんの、後の状態を生活のなかでしっかり支えるということが肝要です。
 この “ 生き場所づくり ” と “ 死に場所づくり ” という概念には、「そこで人間が生活している」ということが含まれています。このような視座が確立されれば、若き医学徒と日本の医療界は改めて、21世紀の保健・医療・福祉を構築することが可能となるでしょう。
 医学・医療・福祉概念の大変容のなかで、医療者はこれからどうあるべきなのかを真剣に考え行動することを社会から要請されているのではないでしょうか。


注 プライマリケア : 患者が最初に接する医療の段階

*初出 月刊 総合ケア Vol. 3 No. 11 1993.11

2008年4月29日

生き場所づくり (1)

エッセイ 1

§ 新しい医療・福祉の視座の確立を ②

 このように変容してきている医療 ・ 福祉の実情に対する動的観かたが、従来の医師に欠落していました。このような観かたを全く教わっていないので、若き医師たちが、 「 地域医療とは勝利なき闘いである 」 と叫ぶ訳です。疾病を治すことのみに主眼を置き、治せないものはないという錯覚を起させるような講義を受けてきた彼らにすれば、このような反応は、ごく自然です。
 近代医学100年の歴史のなかで、治すことのできる治療医学の武器といえば、実は、わずか3つしかありません。抗生物質療法、輸液療法、外科手術です。
 日本人の死因順位は敗戦後の1950年代前半より、それ以前に比べると急速に変化してきました。死因の第1位にあった結核、第2位にあった肺炎 ・ 気管支炎および下痢 ・ 腸炎は急速に影を潜めてきました。この大変貌は、1940年のペニシリン、1948年のクロラムクエニコールなど抗生物質の開発、および下痢 ・ 腸炎に対する抗生物質療法 ・ 輸液療法の一般化によりもたらされたものです。
 最近の薬の開発は、疾病の予防あるいは慢性疾患の進行の緩除化に主眼が置かれています。これらの薬剤は、疾病を治す武器というよりは、人間の自然治癒力を補助する薬剤です。このような自然治癒力の補助剤と治す武器をどう活用できるのか、さらには、治すことができない疾病や予防できる疾病には一体どのようなものがあるのかを熟知することが肝要です。


*初出 月刊 総合ケア Vol. 3 No. 11 1993.11

2008年4月28日

生き場所づくり (1)

エッセイ 1

§ 新しい医療・福祉の視座の確立を ①

 地域医療とは何か? という新しい医療・福祉の視座が、今求められています。その1つの回答が、斎藤芳雄先生の 『 死に場所づくり 』 (教育史料出版会 199212月発行)であると思います。
 しかしながら、これだけでは不十分で、やはり医療のもっている生命の維持という側面を ( おろそ )かにする訳にはまいりません。この医療の側面を改めて見直し、新しい医療 ・ 福祉の視座として私は “ 生き場所づくり ” という概念を提唱したい。
 従来の日本の医療・福祉概念そのものは、疾病構造の変化と、平均寿命の長期化という現実のなかで、変容せざるを得なくなっています。しかし、この現実は、実際に診療に携わっている者には、なかなか見えにくい側面と構造があります。それは、従来の医学が、治療医学を主体とし、ごく少数の者を除き、その視点が予防医学や障害医学に向けられていなかったことに起因します。
 医学には、大きく分けて、予防医学・治療医学・障害医学の3つの分野があり、それぞれが、保健・医療・福祉の領域に相当します。また、医学には、ヒトをマクロの集団としてみる視点と、ミクロの個体としてみる視点の2つの視点があります。前者は予防医学の対象となり、後者は治療医学の対象となります。
 社会が未熟なときには、それぞれが独立してその活動がなされても、社会が成熟し、医学が進んできますとマクロとミクロの両方の視点で、保健 ・ 医療 ・ 福祉が語られざるを得なくなります。例えば、脳卒中を例にとってみますと、当初は脳卒中に陥 ( おちい ) った一人ひとりのヒトの病態を解析するというミクロの視点が主ですが、そのデータの蓄積のなかで、1つの疾病概念が確立され、そこから脳卒中の予防とリハビリテーションというマクロの視点が生まれてきます。リハビリテーションへ向けての教育とその後には、その患者がどう生き、どう生活できるのかという “ 生き場所 ” の論議が展開されます。医療者は、今やそこまでの論議に入り込むことを拒否することはできなくなってきました。


*初出 月刊 総合ケア Vol. 3 No. 11 1993.11

2008年4月20日

つらつら想うこと (2)

エッセイ 1

§ 虫メガネ契約書

 最近出張の度に想うことがある。
 東京に行く時に、旅行社にお願いすると、航空券と別に 『 旅行条件書 』 というものがついてくる。要するに詳細な契約書である。新聞の活字の3分の2位の大きさ ( 正確には6ポ活字 ) の字で、A4の裏表にビッシリ印刷されている。1泊2日の出張であろうと、必ずこれはついて来る。この “ 契約書 ” の中味は未だに一度も目を通すことはしていない。理由は面倒だからである。
 事故が起これば、この契約書に従って処理されるのであろうが、事故の確率からして、《 まずは事故は起こらないであろう。もし大変な事故があって死ぬこともある。そのようなことがあれば、死ぬしかない 》 と考えているから、この虫メガネで読むようなものを気にすることもしない。
 その度に、この虫メガネ契約書を見ると、《 これを一回一回入れ込む作業も大変だなあ、資源の無駄遣いなのになあ 》 といつも想う。最近は、《 どうしてこんなバカなことをするのだろうか? きっと道路財源を大変な無駄遣いするのも同じ精神構造なのだろうな 》 と考えはじめた。
 道路財源関連の公益法人のお金の使い方は、《 こんなことをしても誰も文句は言うまい。バレることもないだろうし、長年の慣例なので責任を問われることもあるまい。しかも、予算は一年単位なので使わないと次の予算が削られるので使わなければ損だ。 》 という形なのであろう。旅行社の虫メガネ契約書も 《 どうせ誰も読めゃあしない。もしトラブルがあれば、これをタテにして済ませば、会社に損害は生じないし、自分の責任は問われないのだから、チケットと一緒に渡す一式に入れとけばいい。 》  という形であろう。
 この2つの事象に共通しているのは、税を納めた人たちの心情、旅行を消費する人間の気持などどこ吹く風という想いである。
 そこには冷え冷えとしたこれからの日本の社会の人間関係を象徴している。人と人の対話を拒否する構造がある。
 アメリカ的市場経済原理主義、重資本主義社会そのものが人間の精神構造に異常を来たしつつあるのかもしれない。

2008年4月18日

つらつら想うこと (1)

エッセイ 1

§ ソドムとゴモラと220円

 先日、地域医療研究会の勉強会に出かけた折に、ルオーとマチス展を観に行った。
 東京新橋の汐留にある松下電工Museum で開かれていた。以前より、ルオーとマチスには興味があったので楽しみにしていた。そこに行くのに新しい地下道を通って行くのだが、すごい都市空間ができていて、驚いてしまった。確か、このような空間の最初は新宿であったのであろうが、今や東京のアチコチにそのような都市空間ができつつある。
 高い天井と石造りの構造、そこに入っているのは有名ブランドを品揃えした店 ・ 店 ・ 店である。
 しかし、何か虚 ( うつ ) ろな空間だなあと感じたことも事実である。これが大地震や災害が一度起ったらどうなるのであろうか? 原子力発電所がストップして電力が送られて来ない事態が生じたら、一体どうなるのだろう? とふとソドムとゴモラの都市の物語を想起した。
 消費、消費、消費と今やファンドと称される連中の合言葉の中には、それだけすさまじい破壊力が内臓されているように見えて仕方がない。
 これが私だけの “ 妄想 ” なのだろうか?


 ミュージアムの入口で、ピンクの紙を渡された。
 そこには、「ルオーとマチス」展 ご来館の皆様へ

《 220円でドリンク+クッキーのセットをご提供 》 
(ルオーとマチス展 限定)

と記されていた。《 おおう、安いな、ホテルや喫茶店でコーヒー1杯のんだら1000円近くとられるんだから! おまけにクッキーがついてるとは! 》 と、この松本文六は卑しい根性を出して、鑑賞後、その場所に行った。広い空間に20人ばかりの人がゆっくりコーヒー等を飲みながらくつろいでいるではないか。しかし、受付のラウンジには4~5人列をつくっている。おまけに私の前にいる人たちが、コーヒーとクッキーを持って座れば私の座る場所を確保することができないではないか。と想ったとたんに 《 止めたっと 》  その場を離れた。
 やはり、皆さん安い料金のものを求めているのだ。建物とお店が超豪華であっても、人の心は…。だからソドムとゴモラの物語を想起したのかもしれない。

2008年4月17日

何のため誰のために医療をするのか?

エッセイ 1

§ 32年目に気づいたこと ⑥

 《 One Generation は30年
》 という言葉があります。最近、そのことにやっと思い当たりました。外来診療で患者さんから話を聞いていますと、人は誰でも年をとることに気づきにくいもののようです。
 へつぎ病院を開設後の10年間は、とにかく病院が地域の人々から認知されることを希い、猪突猛進の日々でした。病院開設13年目の1993年に 《 地域医療研究会 93 IN 豊の国 》 を別府で主催し、13年間の天心堂の医療を総括し、天心堂の理念を確立しました。また、脳死臓器移植問題に関しては、一人の医者として一人の人間として 《 “ 脳死 ” は人の死ではない / 脳死状態からの臓器摘出は認められない / 他人の死を前程とする医療には反対 》 という立場で全国規模での行動を展開しました。そして、97年には病院を移転新築し、入院機能と外来機能を完全に分離しました。
 しかしながら、80年に創設した天心堂の20周年誌の巻頭言を書き始めて気づきましたことは、90年からの10年間の自分は何をやっていたのかということでした。ふと立ち止まって振り返りますと、理念を整理し、新病院をつくったものの、前半10年間に築きあげてきた天心堂そのものがもろくも崩れはじめていることに気付きました。また、本来、この時期に病院経営・運営の骨幹たる若き後継者を養成していなければいけなかったのに、それを実体化できませんでした。自らが年をとることをいつしか忘れてしまっていました。さらに、69年卒の卒業アルバムに 《 裸の王様にはなりたくない! 》 と自ら記しておきながら、自らがそのような状況に陥り始めていたことにはたと思い至りました。この愚かさにやっと気付き、今相当慌てている。あぁ! しかし30年目にして遅ればせながらも気付いたのであればまだ救われるか! と思い直してもいます。

 《 何のため誰のために医者になるのか? 》  《 何のため誰のために医療をするのか? 》 というテーマは未だ達成されていません。この命題を抱えながら、予防を中心に据えた、《 良質にして包括的な保健 ・ 医療 ・ 福祉 を地域に提供する。そして100年を越えて生き続ける医療を実現する。》 という天心堂の医療目標を達成すべく、これからもうひと踏んばりしたいと今考えています。
 これからの5年間で、天心堂医療の原点に改めて還り、プライマリケア / 救急医療 / 在宅医療・介護を核とした、若い医療人が天心堂で研修したいと思うような地域完結型の医療福祉複合体としての天心堂にしたいと考えています。 < 完 >

初出 九大医学部同窓会誌 『 学士鍋 』 第125号 2002年12月20日発行

2008年4月16日

何のため誰のために医療をするのか?

エッセイ 1

§ 生活を診る医療 ⑤

 2002年4月の診療報酬改定で、“ 生活習慣病指導管理料 ” という新しい “ 概念 ” が導入されました。これは、高脂血症・高血圧症 ・ 糖尿病などは、個人の生活習慣に問題があるという断定の上での厚生労働省の視点から出されたもので、私のいう 《 生活を診る 》 医療とは本質的・根本的に立脚点が異なります。厳しい中小零細企業で働いている者にとってはストレスが亢 ( こう ) じて、アルコールを過剰に摂取することはありえます。唯一のくつろぎが晩酌であり、酒の肴をつまむ場面を誰が否定できようか。結果として “ 生活習慣病 ” に陥ったことを国家が咎 ( とが ) めることは許されるべきではない。如何に国家財政が厳しいからといって国家がここまで介入して、罰則として自己負担を強いるのは本末転倒も甚 ( はなは ) だしい。国が介入できるとすれば、予防のための助成金であり、罰としての自己負担増であってはならないと思います。プライマリーの分野で働いている医者は、この視点を持ちあわせていないと食べてゆけない時代となっていますが、分業体制で臓器別に分かれている大病院の医者は特にこの 《 生活を診る 》 視点が欠落しています。
 気づいたことの2つ目は、多くの医療提供者は “ 癒し ” に関する視座を持ちあわせていないことです。患者の 《 生活を診る 》 視座の他に、治療空間や文学 ・ 音楽 ・ 絵画などが、患者の癒しの過程に実に大きな役割を果たしているという視点を持つことは極めて重要です。97年に移転新築した新へつぎ病院は空間を大胆に生かした設計で、音楽 ・ 絵画を取り入れ、患者に公開した書籍棚も設けています。
 3つ目は、医者の技量にものすごいバラツキがある点です。本人の器量にもよりますが、かなりの医者が、基本的 ・ 常識的なエチケットさえ知らないのに驚きます。挨拶、報告 ・ 連絡 ・ 相談、感謝という 『 最低限の教養 』 さえ持ちあわせていない者が少なからずいます。少なくともこの3つ目の最低限の “ 教養 ” がないと、医療の質をあげること自体不可能です。
 学校の成績さえ良ければ、社会も家庭も教師も何も言わないという学校教育がこのような非人間的医者を大量生産したのであろう。こどもの教育・医学教育を根本から考え直さなければ良質な医者は輩出しないでしょうし、良質な医療は提供することさえ困難でしょう。そしてまた、現在のすさまじい量の医療事故を減少させることさえできないでしょう。
 2000年秋、『 医療法等の一部を改正する法律案 』 を検討する国会の厚生委員会で参考人として意見陳述を行いました。私の意見が、お蔵入りしはじめていた新 “ 卒後医師臨床研修システム ” を改めて浮上させることを可能にしました。来春より実施される新たな医学教育や卒後臨床研修の中で、教官や指導医はこの3つの視座からの教育や指導に臨むことが必須と思うのだが、果して、…。

初出 九大医学部同窓会誌 『 学士鍋 』 第125号 2002年12月20日発行

2008年4月15日

何のため誰のために医療をするのか?

エッセイ 1

§ 生活を診る医療 ④

 8年間千早に籍を置いた後、思うところがあって79年に郷里の大分に帰り、80年9月、101床の天心堂へつぎ病院を開設しました。
 へつぎ病院開設にあたって 《 ①出かける医療 ②見ざる言わざる聞かざる医療はしない 》 という2つの医療実践指針を掲げて診療を開始しました。当初は小児科医として診療していましたが、医師不足のため、3年程して内科に転向しました。内科の同僚から学びつつ、外科医から小外科や救急処置を習い、90年頃には 《 専門は? 》 と聞かれれば、《 総合診療医です 》 と答えられるようになりました。現在では、介護老人保健施設の長をも兼ね、総合診療医としての技量が今一つ増えた気がします。総合診療医はプライマリケア医と言いかえられます。


 71年に医師免許を得てから32年、今想うこと、《 無知程恐いものはない 》 という諺通りに、今や360有余人の職員を抱える医療福祉複合体―天心堂―を創りあげてしまいました。これは、私自身が長期的展望に立ってここまでの計画を立てて実行した訳ではなく、結果としてこのようになりました。
 へつぎ病院を創設してのこの22年間で、現在の医療というものがやっと見えて来ました。最初に気づきましたことは、現在の日本の医療は臓器を診ても、患者さんの生活は診ていないという現実でした。大病院・大学病院の医師の大部分は、人の生活 ( = 生きるということ ) の中の一断面でしかない疾病状態を、臓器の中でしか観ていないという恐るべき実態でした。
 それを思考と行動の中枢…脳…を対象とする神経内科や脳外科医は、否応なく患者さんの生活を診療の中に組み込まざるを得ませんが、外科や整形外科は、摘出・再生・修復の手順が終了しますと、後は関知しないのが一般的です。医学の細分化が進むにつれ、それは益々激しくなってゆきますが、医者が診る疾病は、やはり患者さんが生活している過程で隅々疾病に罹患した生活の一断面でしかないという点を医者はもっと知るべきです。QOL (注)
という言葉は、その意味での警告と受け止めるべきだと私は思います。

注 : Quality of Life の略。生命の質・生活の質・人生の質と訳される。筆者自身はすべての意味を込めて使用しています。80年代後半から医学論文で、《 治療により、その患者さんの QOL を高めることができる 》 という使い方が頻繁にされ始めました。

初出 九大医学部同窓会誌 『 学士鍋 』 第125号 2002年12月20日発行

2008年4月14日

何のため誰のために医療をするのか?

エッセイ 1

§ 医者としての第一歩 ③

 ファントム墜落前に苦悩していた私自身の転部の方針は吹き飛んでしまいました。あのようなスローガンを掲げた以上、臨床医にならざるを得ないと最終学年に至ってはじめて自らの将来についての方向性を決定できました。
 様々な経緯の中で、三年遅れて卒業することになった71年春、臨床をするとすれば外科か、しかし、大学当局のブラックリストに載っているとすれば、指導医に迷惑がかかるかもしれない、内科であれば、患者さんと教科書・文献に教えてもらいながら努力すれば何とかなるのでは? という想いで研修先を探しました。
 しかし、大学での研修はできない、お前たちには外国へのビザも下りないという話もあり、周囲の道はすべて塞がれていました。また、運動に関係した多くの先輩や友人は福岡の地から離れて行きました。九大の関連病院である福岡市内の内科研修ができそうな病院を7~8カ所当たりましたが、すべて断られました。唯一、九州中央病院の三宅博院長(当時九大第一外科名誉教授)からは来ても良いというお言葉をいただきましたが、《 但し、無給である 》 と言われ、学生結婚をした以上、親からの仕送りは断たなければならないし、運動の中で無給医制度反対を唱えていましたので、入職を断念しました。何人かの先輩が私のことを心配して下さり、結局、福岡市東区の千早病院小児科(国家公務員共済組合連合会)に職を得ました。
 学生時代あまり医学の勉強をしていませんでしたが、臨床力のある原醇小児科医長の下で何とか医者としての技量を身につけることができました。千早病院在籍中は、注射による筋短縮症・未熟児網膜症問題に取り組み、日本小児科学会の保守的体質を打破し、教科書の2行位を書き換えさせることができました。

初出 九大医学部同窓会誌 『 学士鍋 』 第125号 2002年12月20日発行

2008年4月13日

何のため誰のために医療をするのか?

エッセイ 1

§ 医者としての登竜門でのとまどい ②

 私自身の想いとは別に、この年 ( 1968年 ) の9月、九大医学部自治会が解散し、新委員長に私が選ばれてしまいました。折りしも、インターン制度廃止、新卒後臨床研修教育システム確立要請運動が全国の医学部・医科大学の青年医師連合の手によって進められていました。また、外国では五月革命、中国の文化大革命という形で地球規模での “ 反近代化 ” の学生運動が燎原の火の如く拡がり、日本では全国各地でそれらに呼応して、当時の大学生のほとんどをのみこんだ “ 全共闘運動 ” の炎が燃え拡がっていました。
 九大医学部の学生は、69年2月、建国記念日を中心とした一週間にわたる授業放棄 ( いわゆるストライキ ) を敢行し、同年5月14日無期限ストライキに突入しました ( ストライキ解除は翌70年1月15日 )。いずれも、九大医学部始まって以来の出来事でした。
 この無期限ストライキは、当時あまり語られていませんでしたが、時間と空間を学生自らの意志と手で全面的に活用したという点で大きな意義があったと今想います。水俣病をはじめとする “ 公害 ” 問題、薬害・医療制度の問題、大学自治の問題などについて、学年を越えたグループ討論が日夜展開されました。
 これらの大学での時間と空間を自らの手で創りあげて行ったことは、それに参加した当時の多くの学生のその後の人生に多大な思想的影響をもたらしたと思われます。最大のテーマは 《 何のため誰のために医者になるのか? 》  《 何のため誰のために医療をするのか? 》 でした。私自身も、この大学闘争の真只中で、世界観・価値観の大転換・飛翔を得ました。

初出 九大医学部同窓会誌 『 学士鍋 』 第125号 2002年12月20日発行

2008年4月12日

何のため誰のために医療をするのか?

エッセイ 1

§ 医者としての登竜門でのとまどい ①

 2002年11月5日、私は60才の “ 還暦 ” を迎えました。 “ 歳 ” のことはこれまでほとんど考えたことはありませんでした。それを初めて考えたのは、天心堂創立20周年(1990)年の記念誌の発刊に際し、巻頭言を認めなければならなかった折でした。
 大学時代、生理学のG教授が 《 10年一仕事 》 という話をされましたが、その時は 《 何と悠長な 》 と思っていました。この医者としての32年を振り返る時、この言葉の重みが今にして理解できます。

 私の医者としての32年を振り返りますと、阿弥陀くじに沿って医療をして来たような気がします。
 隅々九大医学部に合格しましたが、専門課程の入り口で躓 ( つまづ ) いてしまいました。解剖学の講義で教科書に書かれている絵と同じ骨のスケッチが黒板に描かれ、ラテン語の名称を記しての講義にはすっかり失望し、講義には出ず、九大医報の編集部に通っていました。私には果たして医者になる適性があるのだろうか、むしろ研究者になるべきではないのかと迷いながらの日々が数ヶ月続きました。その頃は 《 医学とは何か? 》  《 学問はいかにあるべきか? 》  《 研究者はどうあるべきか? 》 ということを模索しながら理学部への転部を真剣に考えていました。
 そのような暗中模索の中の1968年6月2日午後10時48分、板付基地 ( 現 福岡空港 ) から飛び立った米軍戦闘機ファントムが、建築中だった九大工学部の “ 電算機センター ” 5階に突っ込み炎上しました。学長を先頭とする 《 板付基地撤去! 》 をスローガンに掲げた数千人のデモが連日行われ、学内は騒然となっていました。
 ファントム戦闘機の炎上直後、閉じられた工学部の鉄門扉を独りよじ登り現場を観ました。その折、《 自分も何かしなければ! 》 と強く想いたちました。

初出 九大医学部同窓会誌 『 学士鍋 』 第125号 2002年12月20日発行

2008年4月11日

私の原点

エッセイ 1

§ 父と天心堂 ⑤

 “ 名誉院長 ”の意味を、しっかり私自身が認識しておけば、名誉院長が往診に行かれる時、父が病院に出てくるのではなく、病院から自宅まで車でお迎えに行き、往診に行っていただくべきであったのだ。父である、身内であるという固定観念から私自身が一歩も抜け出ていなかったがために、この極めて常識的な判断ができなかったのである。
 ある時、父は言った。「オレに一部屋くれんかのう。往診に行っている何人かをまとめて毎日診たいんじゃがのう!」と。それは、父が疲労しているということの間接的表現であった。そのことに、私は気づかなかった。だから、タテマエ論で終始考え、答えた。「お父さんがそうすると、内科部長が困ると思うよ。それに看護婦の方も古い様式の指示と新しい様式の指示が出て、かえって混乱します。しばらくはそれは遠慮して下さい」と。父の疲労の兆しが、私にはつかめなかったのである。
 死後しばらくして、私はこのことに気がついた。悔やんだ。しかし、もはや遅かった。私は、自分が父を殺したのだと思っている。この償いは、天心堂を100年後までも生き続ける医療機関として、発展させることによってしか、償えないと私は思っている。

初出 「輝かしき陽光のかげで ― 故 ・ 松本弘の想い出 ― 」 1987年9月1日発行

2008年4月10日

私の原点

エッセイ 1

§ 父と天心堂 ④

 名誉院長は私の父である。しかし、私自身、父のことをあまり理解はしてなかったと今思う。むしろ、最近になって父に対する郷愁みたいなものが日増しに強くなってくるのを感じる。
 名誉院長の死には、大きく私に責任がある。父は、あの30℃を超す7月の酷暑の中を、冷房のない(父は冷房が嫌いであった)車で毎日往診を続けていた。70代の老人にとって、それを毎日行うことが如何に大変であったか。迂闊にも私はそのことに気がつかなかった。父は決して、きついから、これをやってくれとは言わなかった。家族が申し出ない限り、父の仕事を取りあげることはできなかった。こと患者のことに関しては、診療拒否をすることは一度としてなかった。家族全員で食事をとるということは、年に1回か2回しかなかったが、その食卓に患者が悪いという連絡が入ると、スゥーと席を立って行っていた。母と子供達が、その度に “ ブゥー ” と言っても関係なかった。一緒に食卓を囲むということを、いつしか、我々子供達もあきらめてしまった。
 父はそのような思想と行動の持ち主であったから、往診がきつくとも、自ら代わってくれとは言わなかった。私自身が父のそのような思想と行動の本質を理解していなかったため、私自身父に対して気配りは全くしていなかった。同族経営の病院であるから何かと批判されるであろうということを前提にして、私は極めて厳しい指示を同族に与えていた。特別扱いしないと。すなわち、父が死亡するまで、私は父を天心堂の名誉院長として待遇していなかった。

初出 「輝かしき陽光のかげで ― 故 ・ 松本弘の想い出 ― 」 1987年9月1日発行

2008年4月 9日

私の原点

エッセイ 1

§ 父と天心堂 ③

 名誉院長が逝って7年、その間、天心堂は個人から財団の医療法人となり、今年 (1985年 ) 3月18日には特定医療法人となった。そして、今、病院全体は飛躍の時期に来ている。その礎を築いたのは、名誉院長が1934 ( 昭和 9 ) 年以来、40有余年に亘って骨身を惜しむことなく、地域住民の健康保持に邁進して来られたことにある。天心堂がここまで発展して来たのは、この天心堂の医療を、目に見えぬ形で非常に強固に支えて来た名誉院長に対する地域の人々の厚い信用と信頼による。確かに我々も頑張った。しかし、名誉院長の40有余年に亘る実践活動は、我々の努力と頑張りをはるかに凌駕している。この地域からの名誉院長に対する厚い信用と信頼が、 < 名誉院長のつくった病院だから間違いなかろう! > という形で、今ある天心堂を支えていること。これを私達は決して忘れるべきではなかろう。
 今私達が、天心堂の飛躍へ向けて真剣に考えなければならないことは、地域からの名誉院長に対するこの厚い信用と信頼がどこから生まれたのか? ということである。それを明らかにし、それに学び、そしてそれを私達が継承することである。古き良きもの ―― それは時代を越えて生き続けるという普遍性をもっている。私の父が言ったことだから、父が実践して来たことだから、ということではない。誰であろうと、その実践して来たことが、普遍性をもつものであれば、私達はそれを継承すべきだ。名誉院長の足跡を振り返り、顕彰し、それを現在に生かし発展させること。それが今私達に課せられている重要な任務だと思う。

初出 「輝かしき陽光のかげで ― 故 ・ 松本弘の想い出 ― 」 1987年9月1日発行

2008年4月 8日

私の原点

エッセイ 1

§ 父と天心堂 ②

 医者同士の話では、すでに瞳孔は散大し、自発呼吸はない、従って脳外科に搬送することもできない、駄目だろう、という結論であった。母に相談すると 「 大和山にお伺いをたてる 」 と言う。そして、 「 4日間待ってくれ 」 と言う。名誉院長の配偶者としての母の意向に沿って生命維持装置を装着したまま、4日後の奇跡を祈った。心の隅では、医者としての判断とは別に  “ 奇跡 ” をひたすら待っていた。4日後の7月20日、脳波は完全に平坦である。家族で協議していた通り、午後3時15分、私が自らの手で酸素を断った。7月20日3時20分が臨終の時刻となった。20日夜間、身内だけで遺体を囲み、翌21日、火葬にふし、通夜を行なった。火葬にふしてお骨を抱いて帰った時、自宅の周辺は何十メートルにわたって人であふれていた。遠く熊本より父の親戚の者がかけつけて来ていたが、言葉を交わす一刻の余裕さえない。多くの方々がはせ参じて下さった。
 それから、また記憶は断たれる。多分相当なストレスがかかっていたのであろう。24日午後が葬儀だというのに22~23日頃より心房細動の発作が起こり、なかなか収まらない。24日朝、山下内科部長より電話があった。 「 カウンターショックをかけましょう。その準備ができています 」 と。途端に私は正常になった。脈も元に戻ったのである。午後1時からの葬儀には、何とか喪主としての役を果たした。
 今振りかえってみると、あれだけの人々が集まって焼香していただいた通夜と葬儀は、名誉院長の人間性とその偉大さを象徴していることに気づく。付き合いや、義理でなく、心から涙して焼香をあげて下さった人々の何と多かったことか! ある人は涙ながらに独りごちた。 「 惜しい人を亡くしたものだ! もう二度と先生のような方は出まい」と。またある人は言った。 「 松本先生のような葬式ははじめてだ。私も仕事柄始終あちこちの葬式には参ったが、こんなに心のこもった葬式ははじめてじゃあ! ワシもこんな葬むられ方をされたいけどなあ! しかしそうはいかんじゃろう。本当に感動した! 」 と。

初出 「輝かしき陽光のかげで ― 故 ・ 松本弘の想い出 ― 」 1987年9月1日発行

2008年4月 7日

私の原点

エッセイ 1

§ 父と天心堂 ①

 1981年7月16日、金曜日であった。朝9時、名誉婦長から病院に電話があった。「今日は名誉院長の外来の当番になっているけど、休ませてくれんかなあ。疲れているようよ。いびきをかいてぐっすり寝てるけん。何度呼んでも返事がないけん」と。私は、「うん、そうね。はいわかった」と言って受話器を置こうとして、はっとした。あわてて受話器を持ちなおし「もしもし !! もう1回大きな声で呼んでみて! 返事がなければ、おかしいよ!」と。待つ間もなく、「返事がまったくないよ !! 」と名誉婦長。「そのままにして! いいかい! 動かしたらいかんよ!」と言ってあわてて自宅にかけつける。父は、顔を右腕にのせ右を向いたまま、応答は全くなかった。脳卒中である !! あわてた。聴診器を忘れている! あわてて応急処置用具を取りに引き返す。
 ……気がついてみると、心臓停止を来たして、山下先生が心マッサージをしていた。
 気が動転するということの意味が理解できたのは、最近のことである。あの父の姿を一見した時、私の気は完全に動転してしまっていたのだ。とりあえず、病院に移すことにした。201号室である。主治医は副院長の石丸である。細かいことは、いま記憶にほとんどない。気が動転してしまったこの間の空白は、私は医者でなかった。一人の息子、素人の、単なる患者の家族の一員でしかなかった。主治医を副院長にして、父が死亡するまでの医学的データーは何一つ記憶にない。データーを見なかったのかもしれない。姉弟妹や親戚が集まり、家があふれ、交互に付き添いながら、夜遅くまで話をしたこと以外あまり覚えていない。父が挿管され、管理されている間、当然ながら診療は続けたと思う。しかし、その記憶も余り定かではない。

初出 「輝かしき陽光のかげで ― 故 ・ 松本弘の想い出 ― 」 1987年9月1日発行

2008年3月26日

見る・観る・聴く・嗅ぐ (17)

エッセイ 1

§ 父とノモンハンと地域医療

 
日本は、1931年に柳条湖“事件”を起し、中国東北地方(満州)に侵略を開始、1937年には盧溝橋“事件”を契機に中国本土への戦争をおっぱじめてしまいました。さらに、1939年ノモンハン“事件”を起し、1941年には真珠湾攻撃を端緒として太平洋戦争を協力に推し進めてしまいました。
 私の父は、ノモンハン戦争に志願軍医として従軍しました。この戦争は、20人に1人の生き残りという凄惨(せいさん)な戦争でした。私は、小学校高学年~中学校の折に、父が、患者さんに《あんた、まだ生きちょったん》と話しかける場面に幾度が出くわしました。《何とひどい挨拶をする父親だなぁ》と、心の中で批判していました。しかし、よくよく考えますと、これはノモンハン戦争に従軍時の共通した朝の挨拶だったのでしょう。前日、朝食の席を同じくした者が翌日には姿を見せないという日常的な原体験が、一部の患者さんが他の戦地に従軍していたことを知っていたので、父はこのような言葉を挨拶代わりにしていまっていたのでしょう。
 天心堂へつぎ病院の竣工落成式(1980年)に際し、父は《これ(へつぎ病院)は戦友の慰霊塔である》と言って声をつまらせた場面を鮮明に記憶しています。
 ノモンハンでは死が日常的なことであり、生きて帰ることが恥とされていた時代でした。《自分の地域医療の実践をすること自体がノモンハン戦争で戦死した戦友たちへの鎮魂行為である》と語ったことがありました。
 戦争は、日常的に人殺しの場を作ることです。《ノモンハン戦争の失敗を総括しておれば、太平洋戦争などは起さなかったはずだ。日本の物量はソヴェトの20分の1位しかなかったのだから。ノモンハン戦争の教訓をしっかり踏まえておれば、あの時代の戦争拡大はありえなかった…》と父はある時つぶやいていました。
 《あんた、まだ生きちょったん》という挨拶が完全に死文化してしまう日本であって欲しいものです。私は、日本国憲法の基本的精神を体現している第9条を改変することを決して認めるわけにはゆきません。このような今の時代にこそ、私はしっかり戦争に反対してゆくつもりです。

2007年12月29日

出立ち姿の老婦人~老健での経験から

エッセイ 1

 医者として病院で診察する時の驚きや感動は、意外と早くくすりが効いたとか、日増しに良くなっていく患者さんの姿や、退院を喜ぶ家族の姿などの中にあります。30年も医者をやっていますと、驚きや感動の揺れが少なくなってきます。一言で申しますと鈍感になってしまいます。急病や救急の患者さんを診ている時には、驚きや感動を覚える暇はありません。とにかく早く処置しなければ! という意識が先に立ちます。人間の体を時には“物”として扱わなければ救命することさえできないことがあります。それは一刻を争う医療行為の量の多寡に関係しています。
 外来での診療室での患者さんとの会話あるいは救急外来や病棟での患者さんとの対応で感じる感覚的空間は、介護老人保健施設でのそれとは全く異質なものです。介護老人保健施設での時間は、救急や病院の時間に比べますとゆっくり、ゆったりしています。それは、サービスを提供する私たちの側に人を観察する余裕をもたらします。
 ある晩、仕事を終え帰ろうとしていますと、お年寄りの女性がエレベーターの近くに帽子をかぶって人待ち顔に椅子に座っているのに気付きました。椅子のかたわらには、衣服らしきもののつまった紙袋が二つ程ありました。それは、まるで汽車の来るのを待っている“出立ち姿の老婦人”という一幅の絵画をみるような光景でした。数日後の昼にもその“絵”を見ることになりました。職員に尋ねますと、5日前に入所されたといいます。
 そして、他日、その老婦人の部屋を覗くと、ベッドの脇には、いつか見た紙袋が二つありました。その老婦人は家に帰りたいのでしょう。家では呆けのせいで面倒をみきれなくなって家族の方はここにあずけたのかもしれません。他方、私たちの眼から見ますと、徘徊するのでもなく、夜中に大声で喚(わめ)くようないわゆる“問題行動”も見られませんので、家に帰しても大丈夫なのではないかと想っています。
 しかし、彼女は帰れないのです。何とも哀しい光景ですが、西欧の天国の日常を描いた一場面をみるようなある種不思議な醒めた感覚を抱かされました。
 あるアンケート調査によりますと、70%の老人は自分の家で暮し死にたいと思っておられるらしいのですが…。
 〈数年前に介護老人保健施設に寄せた文章を一部修正加筆しました〉

2007年12月25日

KYはどういう意味?

エッセイ 1

 昨日、ある週刊誌に『この人も「KY」だった』という見出しがあった。
 KYとは何? 小生は全く知らなかった。確か、三週間程前に、何かでKYという文字を眼にしていたが、自分には関係ないだろうと全く気にしていなかった。
 今度はKYの意味を見極めようと急いだ。
 KYとは、《国民の間に流れる空気(K)を読(Y)めない》ということらしい。とんでもない略語である!! 安倍前首相も福田現首相もKYだったと。
 前首相は、参議院選挙の大敗にKYだった。現首相は、年金公約問題やC型肝炎問題にKYだった。という具合に使うのだろうか?

2007年12月 8日

12月8日を不戦の日に

エッセイ 1

 今日は、66年前の1941年、日本が太平洋戦争を始めた日です。
 悲惨なこの戦争の記憶を日本という国は完全に抹消しようとしています。敗戦間近の沖縄戦における集団自決を歴史上なかっとして教科書の記載を書き換えさせようとしたことは、記憶に新しいことです。
 私は、この真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争開始のこの12月8日を“敗戦記念日”と設定すべきだと考えます。

文六つうしんTOPへ

シリーズ別リンク

月別リンク