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2008年5月15日
人は旅をして気をもらう (4) 鳴門
旅
§ 壮大なる偽物絵画を観る! ⑧ 大塚国際美術館
近代でも18世紀半ばになると、絵の雰囲気が変ってくる。現代に通じるものをキャンバスから感じ取れる。マネ、モネ、ルノアール、ドガ、ロートレック、ピサロ、スーラ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンの画が次々に現われてくる。さらに、ムンク、ルソー、クリムトと。それ以外に馴染みのない画が所狭しと並んでいる。壮大な偽物美術はいつの間にか、本物と意識の中で転換させられて、飽くことなく観てまわった。
何が変って来たのだろう? …。絵画の中でも都市化が起きて来たのだ。そして、日本の浮世絵に触発された新たな絵画界の息吹が感じられてくる。主としてパリを中心舞台にしたものとして。
マネの 『 フォリ=べルジェールのバー 』、 『 草上の昼食 』 は、時代を画したものと思われる。マネの “ 黒 ” の扱いがひどく印象的である。モネの睡蓮 ( すいれん ) 以外の風景画があったのは少し驚くとともに、人間の中途半端な知識や感覚は、結構、いろいろなものを観る側に勝手な想い込みを植えつけ、モネはこんな画家と決めつけるような “ 偏見 ” を具有させてしまう。だから、モネの睡蓮とは趣を異にした風景画に出くわすと “ エッ ” と少々驚くのである。これは、あくまでも少々であって、ゴヤの “ 黒い家 ” の連作を観ての驚きは吃驚のレベルである。当時、日本の浮世絵の影響あるいは日本趣味は、モネの 『 ラ・ジャポネーズ 』 の画面一杯に踊っている。妻カミーユの着衣とその後背の壁には日本のうちわが描かれ、いずれにも日本の浮世絵を見てとれる。モネの 『 日傘の女 』 の石版画は天心堂にもある。しかし、フランス在住の画家が、19世紀後半に浮世絵に大きな驚きをもって傾倒したのは、日本の文化はそれだけのすごいものをもち、彼らに大きな衝撃を与えたものとして、日本人はもっともっとこのことを自覚していいのではなかろうか。
ルノアールの絵は極めて明るく、そこの人物がひどく人懐っこいので人気があるのだろう。肉感的な絵であるのは、ルノアールがやや肥満気味な女性を好んでいたのだろうと勝手に推測している。『 桟敷席 』、『 ムラーン・ド・ギャレット 』、 『 田舎のダンス 』、 『 都会のダンス 』、『 浴女たち 』、『 アルジェリア風の衣装を着たフルーリ嬢 』、『 ピアノに向う娘たち 』 など人間の暖かさを感じさせる。『 日傘のダンス 』 には妻を描いていると言われているが、横広がりの明るい女性として描かれ、右手には扇を掲げているが、ここにもまた、ジャポニズムが表現されている。
ルノアールの明るさに対して、ドガはどちらかと言えば暗い。ネアカとネクラという形での比較もできそうだ。ルノアールの絵には躍動感を感じるが、ドガのそれには抑うつさを感じる。それは、お前が素人だからと言われるかもしれないが、そのような印象を持った。
ロートレックの絵はあまり、迫ってくるものがないような気がする。スーラの点描は根気がいるだろうなと想うし、しかし、その根気強さには、自らの独自の画風を作るための執念のようなものを感じる。やはり職人なのか。それは、『 グランド・ジャット島の日曜日の午後 』 の中で凝縮されている。
セザンヌの『 松の木のあるサント=ヴィクトワール山 』 は、他のヴィクトワール山や風景画でも、黄色の使い方が独特なものがあるような気がする。
ゴーギャン、私の好きな画家の一人である。『 説教の後の幻影』 、 『 イア・オラナ・マリア( マリアを拝む ) 』 の中の赤は、ポンペイアンレッドに近い赤が使われている。何故か、ゴーギャンの絵には精神性の高いものを感じる。暇をみつけて、何故タヒチに行ったのか、どこでゴッホとけんかをしたのかを知り、原画を観れば、また違う印象を得るのかもしれない。
ゴッホの 『 自画像 』 と 『 ひまわり 』、『 アルルのゴッホの部屋 』、『 オーベールの教会 』、『 麦藁帽子の自画像 』 などが並んでいたが、やはり彼独特な筆さばきで、いやに存在感のある絵である。彼の “ 狂気 ” を恐れてか、生前には1枚も絵が売れなかったという。調べたくなることだが、すでに多くの専門家、評論家が調べて書いているのだろうから、それをみてみたいと思う。『 ひまわり 』 は、新宿の旧東京海上火災の高層ビルの最上階で何度か見たが、そこでは手で触れることができないが、ここでは触れることができる。しかし、ここでの陶版画は本物をみていたせいか、なぁーんだという形で通りすぎてしまった。機会があれば、じっくり見比べてみたいものである。
ムンクの絵 『 叫び 』 は、現代社会を予見したような絵で恐い感じがする。
ルソーの絵もまた、彼独自の世界を切り拓いている。 『 子供と人形 』 もさることながら、『 戦争 』 の絵は、それこそ戦争のむごさを予見し反戦を謳った象徴的な絵でもある。
クリムトの絵は、装飾壁画にすれば良さそうな官能的な絵で、あまり好きになれない絵である。
近代という時代区分の中で展示されている絵は、18世紀、19世紀なので比較的判りやすく、人間を描き、人間存在への不信と脅威を描いていることに特徴があると言えるのだろうか。近代の中でルネサンス期から人間存在への讃美というものは次第に薄れてゆき、絵画にも精神性を次第に謳い始めてきているように感じたが、これは美術館の順路に沿ってきたからなのか、それとも、私、松本文六の独断と偏見によるものか。考えどころである。
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