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2008年4月 8日
私の原点
エッセイ 1
§ 父と天心堂 ②
医者同士の話では、すでに瞳孔は散大し、自発呼吸はない、従って脳外科に搬送することもできない、駄目だろう、という結論であった。母に相談すると 「 大和山にお伺いをたてる 」 と言う。そして、 「 4日間待ってくれ 」 と言う。名誉院長の配偶者としての母の意向に沿って生命維持装置を装着したまま、4日後の奇跡を祈った。心の隅では、医者としての判断とは別に “ 奇跡 ” をひたすら待っていた。4日後の7月20日、脳波は完全に平坦である。家族で協議していた通り、午後3時15分、私が自らの手で酸素を断った。7月20日3時20分が臨終の時刻となった。20日夜間、身内だけで遺体を囲み、翌21日、火葬にふし、通夜を行なった。火葬にふしてお骨を抱いて帰った時、自宅の周辺は何十メートルにわたって人であふれていた。遠く熊本より父の親戚の者がかけつけて来ていたが、言葉を交わす一刻の余裕さえない。多くの方々がはせ参じて下さった。
それから、また記憶は断たれる。多分相当なストレスがかかっていたのであろう。24日午後が葬儀だというのに22~23日頃より心房細動の発作が起こり、なかなか収まらない。24日朝、山下内科部長より電話があった。 「 カウンターショックをかけましょう。その準備ができています 」 と。途端に私は正常になった。脈も元に戻ったのである。午後1時からの葬儀には、何とか喪主としての役を果たした。
今振りかえってみると、あれだけの人々が集まって焼香していただいた通夜と葬儀は、名誉院長の人間性とその偉大さを象徴していることに気づく。付き合いや、義理でなく、心から涙して焼香をあげて下さった人々の何と多かったことか! ある人は涙ながらに独りごちた。 「 惜しい人を亡くしたものだ! もう二度と先生のような方は出まい」と。またある人は言った。 「 松本先生のような葬式ははじめてだ。私も仕事柄始終あちこちの葬式には参ったが、こんなに心のこもった葬式ははじめてじゃあ! ワシもこんな葬むられ方をされたいけどなあ! しかしそうはいかんじゃろう。本当に感動した! 」 と。
* 初出 「輝かしき陽光のかげで ― 故 ・ 松本弘の想い出 ― 」 1987年9月1日発行
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