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文六つうしん

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2008年4月 5日

人は旅をして気をもらう (3) 白浜

§ 白浜はまゆう病院 ①

 4月5日、私、松本文六は和歌山県の白浜の地にいる。何で?と誰もが多分考えられるかなあと思う。
 白浜と言えば、はるか昔の新婚旅行のメッカでもあった。九州の宮崎がそうであったように。私が新婚旅行でここに来た訳ではない。 《 いいんじゃない、是非進めるべきだ 》 という私の一言が、私と白浜の “ えにし ” を作ったのだ。
 それは、1992年のいつだったか、私の友人 E 君から 《 白浜にある国立病院が民間に譲渡されるらしい。これを何らかの形で僕たちの地域医療の根拠地にできないか、同じ志を持った若い医師たちで創ると面白いのだろうけどな 》、という話が私にあった。
 早速、E 君とある日、旧国立白浜リハビリテーション病院のある、当時の白浜町の現地を訪れた。それは白浜町の空気のきれいな高台にあった。しかも敷地が広い。これであれば建て替えるにしても充分な土地があり、新旧の建物を有効に使える。しかも、ここは温泉地である。と、あれこれの想いが私、松本文六の脳をめまぐるしく走った。 《 これはいいんじゃあない、是非進めようではないか 》 とE 君に私は答えた。
 その後のE 君の行動は素早かった。たちまち、中心となる若い医師2人を説き伏せて、夢がふくらんだ。E君が仕掛け人で、私は意見を求められたので答えただけであったが、いろいろな事情で、私が前面に出ることになってしまった。
 白浜町の当時の町長さん、眞鍋清兵衛氏がこの構想に乗って来られて、第3セクターでやろうということになり、着々と準備がすすめられていた。ところがあてにしていた大阪の医療法人が、どういう訳か手の平を返してしまったので、計画は完全にお手あげの状態になってしまった。準備万端整い、医療法人許可の内諾を得ている時点、大阪の医療法人が手をひいてしまったので、町長さんも困り果ててしまっておられた。県との話で財団法人の認可がおりる直前だったので町長さんは大変慌てておられ、天心堂に何とか手助けをしてくれないかと自ら大分の私のところまで来られた。
 この時、私は大分医科大学に入院していた。忘れもしない、1992年11月18日午前零時過ぎ、国道10号線の拡幅工事中の道路脇を歩いていて突如4メートル下の荒地に落ち、肋骨数本・左膝蓋骨・右腫骨 ( かかと ) 骨折と胸部の縦隔洞血腫という大怪我をした。
 午前0時40分頃わが天心堂へつぎ病院に搬送され、救急処置がなされたらしい(救急車に乗せられる直前から翌朝9時過ぎまで意識なし)。11月19日、目を覚ましたのは旧へつぎ病院5階の病室のベッドの上であった。昼頃になって、もしかしたら開胸手術が必要になるのではないかと、改めて救急車で当時の大分医科大学病院に運ばれた(現大分大学医学部附属病院)。
 だから、当初の2週間は胸部外科の病室だった。幸いなことに縦隔洞血腫は落ちついたので、3週目より骨折治療のため整形外科に移った。その最中に、町長さんが病床に来られ、天心堂からの援助の要請を受けた。
 少し時間を下さいと即答を避けたものの、協力すべきだと判断し、白浜医療福祉財団法人への出損金を拠出する指示を、当時の事務部長にした。これは理事長としての松本文六の独断であった。12月下旬の退院直後は大変であった。背任行為と散々批判された。場合によっては理事長を辞してでも、自ら借金してでも支援する覚悟で話をつめて行ったので、何とか “ 背任 ” という汚名はまぬがれた。
 今日は、その白浜医療福祉財団法人白浜はまゆう病院の5つ目のサテライト診療所、川添診療所の開所式のためにこの白浜の地に来た。今や、この白浜はまゆう病院は和歌山県南部の地域包括医療の中心的医療機関として地域からの厚い信頼と厚い信用を得ている。
 “ えにし ” があってこそ、その地を何度も訪れる。それは人間の心情である。
 

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