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2008年04月のアーカイブ
2008年4月30日
生き場所づくり (1)
エッセイ 1
§ 新しい医療・福祉の視座の確立を ③
しかし現代医学の到達した地平のなかで、近代医学の成果と限界という極めて重要な2つの事項が、現代の医学教育では全く教えられていません。 「 病をみて人をみず 」、 「 木を見て森を見ず 」 という諺 ( ことわざ ) が残念ながら現在の医学教育の世界には罷 ( まか ) り通っているとしか思えません。
“ 生き場所づくり ” とは、まさに、現代医学の到達した地平のなかで、その成果と限界を十二分に認識し、一人の患者さんを生活のなかでしっかりと支えるということだと思います。そして、その出発点は、疾病が疾病として表に顔を出さない段階で患者さんの悩みを聞き、応えなければならないプライマリケア (注) の場です。プライマリケアの現場では、大学で学んだことはほとんど役に立ちません。それは、近代西洋医学が、できあがった疾病概念から出発する方法を最優先にしているからです。したがって、疾病概念に相当するものを見つけることができなければ、その医師を手当てを放棄せざるを得ません。現実の社会のなかには、疾病概念として確立していない前疾病状態というものは際限なくあります。またプライマリケアの現場では、慢性疾患の急性期を乗り越えた患者さんの、後の状態を生活のなかでしっかり支えるということが肝要です。
この “ 生き場所づくり ” と “ 死に場所づくり ” という概念には、「そこで人間が生活している」ということが含まれています。このような視座が確立されれば、若き医学徒と日本の医療界は改めて、21世紀の保健・医療・福祉を構築することが可能となるでしょう。
医学・医療・福祉概念の大変容のなかで、医療者はこれからどうあるべきなのかを真剣に考え行動することを社会から要請されているのではないでしょうか。
注 プライマリケア : 患者が最初に接する医療の段階
*初出 月刊 総合ケア Vol. 3 No. 11 1993.11
2008年4月29日
生き場所づくり (1)
エッセイ 1
§ 新しい医療・福祉の視座の確立を ②
このように変容してきている医療 ・ 福祉の実情に対する動的観かたが、従来の医師に欠落していました。このような観かたを全く教わっていないので、若き医師たちが、 「 地域医療とは勝利なき闘いである 」 と叫ぶ訳です。疾病を治すことのみに主眼を置き、治せないものはないという錯覚を起させるような講義を受けてきた彼らにすれば、このような反応は、ごく自然です。
近代医学100年の歴史のなかで、治すことのできる治療医学の武器といえば、実は、わずか3つしかありません。抗生物質療法、輸液療法、外科手術です。
日本人の死因順位は敗戦後の1950年代前半より、それ以前に比べると急速に変化してきました。死因の第1位にあった結核、第2位にあった肺炎 ・ 気管支炎および下痢 ・ 腸炎は急速に影を潜めてきました。この大変貌は、1940年のペニシリン、1948年のクロラムクエニコールなど抗生物質の開発、および下痢 ・ 腸炎に対する抗生物質療法 ・ 輸液療法の一般化によりもたらされたものです。
最近の薬の開発は、疾病の予防あるいは慢性疾患の進行の緩除化に主眼が置かれています。これらの薬剤は、疾病を治す武器というよりは、人間の自然治癒力を補助する薬剤です。このような自然治癒力の補助剤と治す武器をどう活用できるのか、さらには、治すことができない疾病や予防できる疾病には一体どのようなものがあるのかを熟知することが肝要です。
*初出 月刊 総合ケア Vol. 3 No. 11 1993.11
2008年4月28日
生き場所づくり (1)
エッセイ 1
§ 新しい医療・福祉の視座の確立を ①
地域医療とは何か? という新しい医療・福祉の視座が、今求められています。その1つの回答が、斎藤芳雄先生の 『 死に場所づくり 』 (教育史料出版会 1992年12月発行)であると思います。
しかしながら、これだけでは不十分で、やはり医療のもっている生命の維持という側面を ( おろそ )かにする訳にはまいりません。この医療の側面を改めて見直し、新しい医療 ・ 福祉の視座として私は “ 生き場所づくり ” という概念を提唱したい。
従来の日本の医療・福祉概念そのものは、疾病構造の変化と、平均寿命の長期化という現実のなかで、変容せざるを得なくなっています。しかし、この現実は、実際に診療に携わっている者には、なかなか見えにくい側面と構造があります。それは、従来の医学が、治療医学を主体とし、ごく少数の者を除き、その視点が予防医学や障害医学に向けられていなかったことに起因します。
医学には、大きく分けて、予防医学・治療医学・障害医学の3つの分野があり、それぞれが、保健・医療・福祉の領域に相当します。また、医学には、ヒトをマクロの集団としてみる視点と、ミクロの個体としてみる視点の2つの視点があります。前者は予防医学の対象となり、後者は治療医学の対象となります。
社会が未熟なときには、それぞれが独立してその活動がなされても、社会が成熟し、医学が進んできますとマクロとミクロの両方の視点で、保健 ・ 医療 ・ 福祉が語られざるを得なくなります。例えば、脳卒中を例にとってみますと、当初は脳卒中に陥 ( おちい ) った一人ひとりのヒトの病態を解析するというミクロの視点が主ですが、そのデータの蓄積のなかで、1つの疾病概念が確立され、そこから脳卒中の予防とリハビリテーションというマクロの視点が生まれてきます。リハビリテーションへ向けての教育とその後には、その患者がどう生き、どう生活できるのかという “ 生き場所 ” の論議が展開されます。医療者は、今やそこまでの論議に入り込むことを拒否することはできなくなってきました。
*初出 月刊 総合ケア Vol. 3 No. 11 1993.11
2008年4月26日
介護現場が大変
介護
§ 民主党案 ③
民主党は、介護現場の人材不足に対し、介護士一人当り2万円の賃金引き上げ法案を国会に提出するという考えをこの1月に表明した。
その詳しい資料をこの4月初めに入手した。民主党は、その骨子として以下3点あげている。
- 介護現場での人材不足は、介護職員の待遇の低さ ― 特に低賃金 ― であると認識している。
- 介護労働者の待遇改善のための緊急措置法を制定する。
- 2008年4月より、平均賃金の金額が一定以上と見込める 「 認定事業所 」 に対し、介護報酬を3%加算する介護報酬の緊急改定を行う。
具体的には以下の形で法案化するという。
<介護労働者の人材確保に関する特別措置法案>
- 賃金引き上げの目安 ( 一人当り ) 月2万円
- 認定事業所の介護報酬加算率 3%
- 認定事業所となる割合 50%(推計)
- 必要な財源規模 900億円
このような法案について、お前はどう考える? とある人から問われた。即答えたのは 《 この法案を提案した代議士は、現場のことが全く判っていないですね 》 と。
第1に、一人あたま2万円の上積みの基準があいまいである。
第2に、“ 認定基準 ” となる賃金の目安を大都市と地方とでどう考えるのか、その格差さえ明らかにされていない。
第3に、介護福祉施設の中には、特別養護老人ホーム時代の補助金で、施設開設者の個人の趣味で高額な骨董品を購入し、職員の頭数は法定人員は確保しているところが結構ある。しかるに、法定人員では手がまわらず、法定人員の1.2~1.5倍の人員を配置しているところもある。この場合、給与は、1.2~1.5倍の人員をそろえているところの方が低いかもしれない。このような現実を無視して “ 認定事業所 ”に 1人当り2万円の給与を上積みすることはバラマキ以外の何物でもない。もっと知恵を絞る必要がある。と私は答えた。あまりにも単純な素人的な方式を大きな政党が提案していることにあきれはててしまった。現場を知らないと、こんな法案が堂々とまかり通る。後期高齢者医療制度をドサクサの中で法案を強行採決し、国民が最も必要としている医療・福祉を無視している現在の与党と全く変りがない。
ちなみに、私の属している法人の介護老人福祉施設(陽光苑)の人員を法定人員と比較してみた。
調理員や事務員が法律では適当数となっているので比較しにくいが、その人員を陽光苑と同じと仮定すると、1.23倍となる。それは、法定人員のみでは現場を維持することができないからである。ちなみに介護施設の中核である医師・看護師・介護士・理学療法士・作業療法士の範囲に限ると、陽光苑は法定人員の1.27倍である。法定人員を満たすだけでは介護現場は崩壊する。それは、現場に直接関わっている者が一番よく知っている。人手が不足すると残った者への負担が多くなり、次々と辞めていくという悪循環に陥 ( おちい ) ってしまう。 《 きつい、汚い、危険な 》 職場であるから。
このような視点で法律や法律案を考えてもらいたいものである。
表 : 100床当りの介護老人保健施設の法定人員基準と現実
法定人員 陽光苑職員数
(100床当り) (100床)
管理者 1 1
医師 1 1.25
薬剤師 0.3 0.3
看護師 9 10
介護士 25 33.8
支援相談員 1 2
介護支援専門員 1 1
理学療法士又は
作業療法士 1.8 2
栄養士 1 1
調理員 適当数(α) 5.5
事務員 適当数(α) 2.4
計 41.1+α 60.25
この民主党案は、4月22日衆議院厚生労働委員会で審議が始まった。その中で自民党の厚生労働委員会は23日、『 介護従事者等の人材確保のための介護従事者等の処遇改善に関する法律案 』 を対案として提出することを決めたという。
私、松本文六は、介護労働者の人材確保のためには、看護師 ・ 介護士など法定人員を越えて頑張っているところに加算をすべきだと考える。そうでないと介護の質はあがらない。介護現場には労働集約産業であるが故に多くの人員が必要である。介護士等が定着するには、介護報酬そのものを大幅に上げる必要がある。介護福祉士養成学校の定員を大幅に越すように、将来に希望を託せる職業として社会から認知される、そのような政策がとられるべきである。
2008年4月25日
介護現場が大変
介護
§ 介護の人材不足深刻 ②
日本経済新聞の2008年1月30日の記事をかいつまんで以下に紹介したい。
日本経済新聞社の調査によると、介護事業所の2割が配置すべき最低限の職員数を確保できない状況を経験しているという。
調査時期 : 2007年11~12月
調査方法 : 訪問介護や有料老人ホームなど介護関連事業を手がける694法人に調査票を送り、300法人より回答を得た。回答率 43.2%
それによると、以下のような結果であった。
- 人員の配置基準を満たせなかったことがある … 19.3%
- 現時点で未達の事業所がある … 2.1%
- 不足が目立つ職種
ホームヘルパー … 76%
ケアマネジャー … 36%
看護師 … 71%
准看護師 … 32%
介護福祉士 … 66% - 人材不足の状況
明らかに人手不足 … 57%
何とか確保は追いついている … 31%
人手は余っている … 3%
無回答 … 9%
少なくとも、標準人員を一時的に満たせなかったという事業所が2割もあったとは大変な事態と言える。現在、私の属している法人が経営している介護老人保健施設での経験からすると、標準人員では質のいい介護などは到底考えられないので、この数字には驚きとともに介護の人手不足による “ 介護崩壊 ” を危惧 ( きぐ ) せざるを得ない。
ちなみに、この調査では、人手の足りない事業所では、利用者へのサービス提供時間を減らした所が26.7%に達したという。また、他方で、《 手間のかかる重度の要介護者は避けている 》 《 新規の訪問介護を断っている地域がある 》 と、必要な人が必要なサービスを受けられなくなっている実態が浮かび上がっているという。
また、2007年度の営業損益が前期比マイナスになりそうな事業所は35.3%。その理由として 《 介護保険の報酬マイナス改定 》 が68.9%と最も多く、《 人件費の負担増 》 が53.8%と続いているという。要するに、総収益の減少に経費増が追い打ちをかけているという事態が明らかになっている。
やはり、労働集約産業といわれる医療 ・ 福祉 ・ 介護 ・ 教育 ・ 保育などにはもっともっと税を投入すべきである。道路や橋に税を投入するよりも、これらの領域に税を投入すれば、雇用が大幅に拡大し、国に入ってくる税収が増えるので、国はその方向を追求すべきだと私は考える。
証券優遇税制や累進課税を再検討する中で、この領域への財源は充分賄えるはずである。国土交通省の “ 公益法人 ” を整理することにより、12兆6000億円も浮いてくるという話が、みのもんた さんのテレビ画面が数日前、眼に入って来た。ますます、税の投入先を徹底して見直すべきであろう。
介護される状況は、富める者も貧しき者もどちらにも襲ってくることを、今の与党の政治家は全く理解していないのではないのか? 人間の痛みを感じない人間を政治の場より追放するしか、私たちの未来はないと最近特に感じる。
2008年4月24日
介護現場が大変
介護
§ 介護現場が大変 ①
介護現場が大変であることは、テレビなどを通して、すでに広く知れわたっている。しかし、具体的に何がそれ程大変なのかについての報道は少ない。
人手が確保できないことが、最大の問題である。何故人手が確保できないのか。給与が低いためである。とりわけ物価の高い東京 ・ 大阪をはじめとする6大都市レベルの地域では、介護士~介護福祉士の給与が他の職種に比べて相対的に大幅に低い。これは、介護施設の報酬は包括制であり、満額であれば年間粗収入はいくらと、年度初めに予測がつく。
その中で、3年間介護報酬は据置きであり、医療・福祉領域以外の人間を対象とするのではなく物を製造する工場などとは違い、利益を年々あげるための工夫は極めて限られている。そのため大都市部では、このような給料では結婚できないということで転職して行ったという報道がなされている。しかしながら、田舎 ・ 地方でも同じような現象が起っている。田舎では、労働がきついし、若者が少なく、男女交際の場が少なく、しかも、産科 ・ 小児科医がいないので将来不安であると県央や県庁所在地に職を求めて介護士や介護福祉士は移動する。昨年、大分県をくまなく回り、いろいろと話を聞くと、募集にも来ない、2000年頃は、田舎でも結構応募があったのに、……と。それは介護福祉士養成校が定員規模を縮小していることからも現実を反映している。
これでは、介護の社会化という大義名分の旗を立てて出発した介護保険制度も尻すぼみである。医療崩壊と同じように介護崩壊が目に見えてくる。
人のいのちや暮らしを支えるための医療や介護 ・ 福祉の領域を大事にしない国はいずれ滅ぶと私、松本文六は考えます。
何とかする必要がある。
2008年4月23日
見る・観る・聴く・嗅ぐ (21)
医療
§ 精神的ショックと統合失調症
ある医学ジャーナルから、最新の情報をお伝えします。
マンチェスター大学 ( 英国 マンチェスター ) の Alls. Khasham らは、妊娠初期に近親者の死など、極めて厳しいストレスを経験した妊娠の子供は統合失調症 ( 旧病名 : 精神分裂病 ) を発症しやすいという知見を明らかにした ( Archires of Generol Psychiatry 2008 ; 65 : 146~152 ) 。
それは膨大なデータを分析して得られた知見である。デンマークの 1973 ~ 95 年の 138 万件の出生データと国民登録データを用いて調査している。近親者が妊婦の妊娠中に、がん ・ 心筋梗塞 ・ 脳卒中で死亡したか、その診断を受けたか否かの調査をした。その中で生まれた子供を10才の誕生日から 2005 年 6 月 30 日まで、あるいは死亡・出国・統合失調症発症まで追跡している。
その結果、21,987 例の子供の母親が妊娠中に近親者の死に、14,206 例が近親者の重病に遭遇し、7,331 例の子供が統合失調症を発症したと述べている。
統合失調症と関連障害リスクは、妊娠初期に近親者の死に遭遇した妊娠の小児では他のグループに比べ67%高いという。そして、その他の妊娠期間と、妊娠6ヵ月以上前における近親者の死や重病は、子供の統合失調症とは相関していなかったという。
家族の死と統合失調症発症との関連は、精神疾患の家族歴 ( 親 ・ 祖父母 ・ 兄弟 ) のない場合にのみ有意であったという。
このグループは 、《 ストレスに応じて母親の脳が放出する化学物質が胎児の脳の発達に影響する可能性がある。これらの影響は、母子間の保護バリアーが充分に構築されていない妊娠初期に最も強くなるのであろう 》 と考察している。
疾病と環境は密接に関連していることは、よく知られた経験値である。 《 疾病と貧困は正比例する 》 という古くからの一節をこの論文に触れてやっぱりと想った。真実らしい調査研究である。
日本では、未 ( いま ) だにこのような研究はなされていないように思う。役所の裁量基準での研究費の配分は、頭脳を海外に流出させ続けるのではないかと私は、危惧 ( きぐ ) している。
2008年4月22日
日本の医療が危ない (13)
後期高齢者医療制度
§ 《 医療の世話になるな 》と言う後期高齢者医療制度
先日、愛知県をはじめとするいくつかの県では、65才以上の身体障害者は後期高齢者医療制度に “ 強制加入 ” させられるというメールをいただきました。驚きました。しかし、大分県についても調べてみますとヤッパリという感じです。
大分県では、任意とのことでした。いくつかの県で、国民健康保険に加入している65才~74才の障害者を後期高齢者医療制度に移すのは、自治体の負担を少なくすることを目的としています。65~69才は本来3割の自己負担、70~74才は2割の自己負担(2008年度いっぱいは1割)です。後期高齢者医療制度の自己負担額は1割ですので、自治体の肩代わりをより少なくすることができるからです。
大分県では障害者本人の所得、あるいは、同居の扶養義務者のうち最も所得が多い方の所得により、障害者医療費助成金制度を適用するかどうかを決定し、その上で後期高齢者医療制度に加入させるかどうかを認定するそうです。そして、後期高齢者医療制度に加入するのがイヤな障害者は、障害認定の申請を撤回すれば、国保または被用者保険に加入することが可能だそうです。
しかしながら、後期高齢者医療制度は、国5、自治体4、被保険者1割という形で、その財源を担保するということで、しかもハイリスクグループのみを取り出しているので、ゆくゆくはこの医療費総額は赤字になることは火を見るより明らかで、この場合には保険料が上げられることになります。定率1割で後期高齢者の負担する保険料額が次第に上昇するのは目に見えています。すなわち、できるだけ医療の世話にならないようにしなさいという制度とも言えます。
他方、このハイリスクグループの面倒をみるのは各県の広域連合で、行政も国もどういう形で関与するのか全く不分明で、最終的責任はどこがとるのかも明確になっていないようです。まさに悪法中の悪法です。やはり、この制度は “ 姥捨て山 ” 制度です。
2008年4月21日
医療についての質問から
総合診療
§ 総合診療とは
総合診療とは、患者さんの健康上の問題について一応何でも答えられる診療のことを言います。最近は総合診療医とか総合診療科・総合診療内科という標榜 ( ひょうぼう ) もされています。
今回、質問を寄せていただいた方のかかりつけ医での 《 総合医療反対のビラ 》 は恐らく、今回の後期高齢者医療制度の中味についても賛成できないという意味だったと考えられます。この制度の中味については、私ども医師にも理解しがたい仕組みが内臓されていました。
75才以上の高齢者は、かかりつけ医( ⇒ これを “ 主治医 ” と呼ぶと厚労省は言い始めた)にかかり、他の医療機関に行く時には、その先生の許可をもらいなさい、という形の “ 登録医制 ” を目指していました。
“ 登録医 ” 制度とは、AさんはX診療所に登録しなさい、AさんがY診療所やZ病院にかかる場合には後期高齢者診療科…1ヶ月定額5,400円の報酬を診療所に広域連合から支払い、自己負担は600円…はYやZの医療機関には支払われないという制度。これは、フリーアクセスの制限を意味します。また、他方では、必然的に医療機関同士の患者のとりあいを行わせることを前提とされています。しかも、驚くことには、厚労省は主病を1つにしなさいと主張しています。例えばAさんがX医師を登録医と決めれば主病(例えば高血圧)についてはX診療所には、後期高齢者診療料を認めます。しかし、Y診療所やZ病院にかかった時にはそれは支払いません。それは、主病は1つしかないからだと厚労省は言います。
高齢者は、慢性疾患をいくつも持っています。例えば、糖尿病や高血圧、そして狭心症も高コレステロール血症もという具合で、主病を1つに限定せよということ自体が不可能です。例えば、胃がんが見つかったとすれば、一般的には、私たち医師の間では、最優先に治療されるものとして胃がんを主病とします。手術が終わったあとは、糖尿病が悪化して、それが前面に出れば、糖尿病が主病ということにはなり、胃がん術後状態が副病名になります。しかし、平時においては、糖尿病・高血圧・狭心症・高コレステロール血症をトータルに主病とせざるを得ません。医療のことが全く判っていない厚労省の役人が、医療界の定見・常識を無視して 《 主病は1つ 》 とか、《 主治医制度 》 とかを持ち出して来るので、現場の医師たちにとっては憤怒に耐えられないのが実情です。
しかも、《 総合診療ができる 》 主治医制度を設けると言い始めたので、またまたおかしくなってきたのです。厚労省が言う 《 総合診療のできる 》 ということは、《 高齢者の診療が総合的に診れる 》 という意味で使っているようです。開業の先生にしてみれば、俺たちはいつでも高齢者を総合的に診ているんだ。俺たちは高齢者をよく診れないと言っているのと同じではないか、俺たちをバカにしているのか!と大変な騒動になっています。
大きな病院で20~30年外科手術ばかりやっていた医者が、田舎に行って、明日から高齢者の一般内科の診療をやってくれと言われたら、恐らく不可能です。耳鼻科・眼科の医者にそれを要求してもできるわけではありません。
ともかく、後期高齢者医療制度は、ハイリスクグループをひと握りにしてそこでの赤字については、後期高齢者や障害者自身で賄え!という制度でもあり、このことは、世界に冠たる日本の皆保険制度とWHOから評価されていたものを一挙に崩してしまう悪法です。そもそも、国民皆保険制度とは、医療・福祉・年金について、ハイリスクグループとかローリスクグループとかにかかわらず、リスクを分散して、国民一人ひとりの生存権を守るという秀(ひい)でた理念から出発したものです。今回の後期高齢者医療制度は、この理念そのものを根本より壊すことを最大の目標にしていると私には思えます。
2008年4月20日
つらつら想うこと (2)
エッセイ 1
§ 虫メガネ契約書
最近出張の度に想うことがある。
東京に行く時に、旅行社にお願いすると、航空券と別に 『 旅行条件書 』 というものがついてくる。要するに詳細な契約書である。新聞の活字の3分の2位の大きさ ( 正確には6ポ活字 ) の字で、A4の裏表にビッシリ印刷されている。1泊2日の出張であろうと、必ずこれはついて来る。この “ 契約書 ” の中味は未だに一度も目を通すことはしていない。理由は面倒だからである。
事故が起これば、この契約書に従って処理されるのであろうが、事故の確率からして、《 まずは事故は起こらないであろう。もし大変な事故があって死ぬこともある。そのようなことがあれば、死ぬしかない 》 と考えているから、この虫メガネで読むようなものを気にすることもしない。
その度に、この虫メガネ契約書を見ると、《 これを一回一回入れ込む作業も大変だなあ、資源の無駄遣いなのになあ 》 といつも想う。最近は、《 どうしてこんなバカなことをするのだろうか? きっと道路財源を大変な無駄遣いするのも同じ精神構造なのだろうな 》 と考えはじめた。
道路財源関連の公益法人のお金の使い方は、《 こんなことをしても誰も文句は言うまい。バレることもないだろうし、長年の慣例なので責任を問われることもあるまい。しかも、予算は一年単位なので使わないと次の予算が削られるので使わなければ損だ。 》 という形なのであろう。旅行社の虫メガネ契約書も 《 どうせ誰も読めゃあしない。もしトラブルがあれば、これをタテにして済ませば、会社に損害は生じないし、自分の責任は問われないのだから、チケットと一緒に渡す一式に入れとけばいい。 》 という形であろう。
この2つの事象に共通しているのは、税を納めた人たちの心情、旅行を消費する人間の気持などどこ吹く風という想いである。
そこには冷え冷えとしたこれからの日本の社会の人間関係を象徴している。人と人の対話を拒否する構造がある。
アメリカ的市場経済原理主義、重資本主義社会そのものが人間の精神構造に異常を来たしつつあるのかもしれない。
2008年4月19日
日本の医療が危ない (12)
医療事故
§ 今、医療界で何が問題となっているのか
4月12日、地域医療研究会の勉強会があり、上京した。
メインのテーマは、厚労省の 『 診療行為に関連した死亡の死因究明等の在り方に関する検討委員会試案 』 ( 第2次試案 ) についてであったが、4月3日に公表された第3次試案ではその名称が変更されていた。新名称は 『 医療の安全の確保に向けた医療事故による死亡の原因究明・再発防止等の在り方に関する試案 ― 第3次試案 ― 』 となっていた。
講師は、大阪八尾市の医真会八尾病院理事長の森功先生。森先生は1995年に医療事故調査会を立ち上げ、多くの医療事故の原因分析とその防止策について研究されて来られた先生である。森先生は、今の厚労省第3次試案では、懸案としている医療関連死に関する原因究明と再発防止に対する実効性はない。医療被害者の補償まで踏み込んだ制度でない限り、試案のような “ 調査委員会 ” を設けても駄目であると断言された。一番大きな点は、死因究明と再発防止を唱えながら、患者の視点が完全に抜け落ちていること、第2の問題は刑事訴追をして処罰をすることを明記している点にあると。フランスをはじめ先進諸国では、医師には刑事罰を適用しないことを明言していると。
また、森先生は、医療事故への対応は以下の6つの段階すべてを踏める制度にしなければ意味がないと指摘された。
① 検出 ・ 影響緩和
② 共感的謝罪
③ 原因分析 ・ 評価
④ 責任謝罪
⑤ 患者救済
⑥ 予防法の確立
現在の厚労省試案は、③ のみを中心にしており、その上に処罰を前提としているので、認めるべきではないと。
松本文六は、行政処分や監査機関への通報は全く意味がないとすでに指摘している。改めて、2月21日・22日の 「 文六つうしん 」 を参照下さい。
医療事故調査の名を借りた、医師の選別 ・ 処罰を行うことを目的としているとしか考えられない。そもそも、この検討委員会の委員に刑法学が専門である首都大学法科大学院教授前田雅英氏を据えたこと自身、厚労省の意図はみえみえであった。
医療崩壊のキッカケの主要な要因は、医療裁判、刑事訴追や患者さんとの軋轢 ( あつれき ) に対する恐怖感からであるということを “ 検討委員会 ” の諸氏は理解していないのではなかろうか。現に中小病院や二次救急医療機関では当直拒否や当直していても自分の専門以外の診療を忌避する現象が各地で起こっている。そのために、全国の主要な救命救急センターに患者さんが押しかけ、本来の業務に支障を来たしているのが現実である。そこに押しかける患者さんの多くは入院不要な一次救急の病状の人が9割を占めると言う。
そのような環境の中で、医師達は疲れ切ってしまいます。そのあげくそのセンターから立ち去って行くという情況が眼に見えてくる。このような空気が読めないと、医療崩壊は益々進行してゆく。医師が行政処分や刑事訴追(第3次試案でも悪質な場合には捜査機関に通報すると明記されている)におののくと、自己保身医療が跋扈 ( ばっこ ) する。これは一般的な現在の医師の心情である。行政処分や刑事訴追が想定されるのに自院の医療死亡事故を鷹揚 ( おうよう ) に届け出るような能天気な医療機関管理者などいるはずがない。
現在の医師、とりわけ、若い医師は厳しい受験戦争を勝ち抜いてきた猛者 ( もさ ) である。能天気な者はとっくの昔に受験競争から脱落している。99.9%以上そうだと、松本文六には想える。
医療事故死亡の原因究明と再発防止策に特化した、《 医療事故調査委員会 》、あるいは 《 医療安全推進委員会 》 とし、行政処分や刑事訴追はこの案から100%はずさなければ全くその存在意義はないと私、松本文六は考える。
森先生曰く、《 第3次試案が法案として通れば、医療機関は万々歳でしょうね 》 と。
2008年4月18日
つらつら想うこと (1)
エッセイ 1
§ ソドムとゴモラと220円
先日、地域医療研究会の勉強会に出かけた折に、ルオーとマチス展を観に行った。
東京新橋の汐留にある松下電工Museum で開かれていた。以前より、ルオーとマチスには興味があったので楽しみにしていた。そこに行くのに新しい地下道を通って行くのだが、すごい都市空間ができていて、驚いてしまった。確か、このような空間の最初は新宿であったのであろうが、今や東京のアチコチにそのような都市空間ができつつある。
高い天井と石造りの構造、そこに入っているのは有名ブランドを品揃えした店 ・ 店 ・ 店である。
しかし、何か虚 ( うつ ) ろな空間だなあと感じたことも事実である。これが大地震や災害が一度起ったらどうなるのであろうか? 原子力発電所がストップして電力が送られて来ない事態が生じたら、一体どうなるのだろう? とふとソドムとゴモラの都市の物語を想起した。
消費、消費、消費と今やファンドと称される連中の合言葉の中には、それだけすさまじい破壊力が内臓されているように見えて仕方がない。
これが私だけの “ 妄想 ” なのだろうか?
ミュージアムの入口で、ピンクの紙を渡された。
そこには、「ルオーとマチス」展 ご来館の皆様へ
《 220円でドリンク+クッキーのセットをご提供 》
(ルオーとマチス展 限定)
と記されていた。《 おおう、安いな、ホテルや喫茶店でコーヒー1杯のんだら1000円近くとられるんだから! おまけにクッキーがついてるとは! 》 と、この松本文六は卑しい根性を出して、鑑賞後、その場所に行った。広い空間に20人ばかりの人がゆっくりコーヒー等を飲みながらくつろいでいるではないか。しかし、受付のラウンジには4~5人列をつくっている。おまけに私の前にいる人たちが、コーヒーとクッキーを持って座れば私の座る場所を確保することができないではないか。と想ったとたんに 《 止めたっと 》 その場を離れた。
やはり、皆さん安い料金のものを求めているのだ。建物とお店が超豪華であっても、人の心は…。だからソドムとゴモラの物語を想起したのかもしれない。
2008年4月17日
何のため誰のために医療をするのか?
エッセイ 1
§ 32年目に気づいたこと ⑥
《 One Generation は30年 》 という言葉があります。最近、そのことにやっと思い当たりました。外来診療で患者さんから話を聞いていますと、人は誰でも年をとることに気づきにくいもののようです。
へつぎ病院を開設後の10年間は、とにかく病院が地域の人々から認知されることを希い、猪突猛進の日々でした。病院開設13年目の1993年に 《 地域医療研究会 93 IN 豊の国 》 を別府で主催し、13年間の天心堂の医療を総括し、天心堂の理念を確立しました。また、脳死臓器移植問題に関しては、一人の医者として一人の人間として 《 “ 脳死 ” は人の死ではない / 脳死状態からの臓器摘出は認められない / 他人の死を前程とする医療には反対 》 という立場で全国規模での行動を展開しました。そして、97年には病院を移転新築し、入院機能と外来機能を完全に分離しました。
しかしながら、80年に創設した天心堂の20周年誌の巻頭言を書き始めて気づきましたことは、90年からの10年間の自分は何をやっていたのかということでした。ふと立ち止まって振り返りますと、理念を整理し、新病院をつくったものの、前半10年間に築きあげてきた天心堂そのものがもろくも崩れはじめていることに気付きました。また、本来、この時期に病院経営・運営の骨幹たる若き後継者を養成していなければいけなかったのに、それを実体化できませんでした。自らが年をとることをいつしか忘れてしまっていました。さらに、69年卒の卒業アルバムに 《 裸の王様にはなりたくない! 》 と自ら記しておきながら、自らがそのような状況に陥り始めていたことにはたと思い至りました。この愚かさにやっと気付き、今相当慌てている。あぁ! しかし30年目にして遅ればせながらも気付いたのであればまだ救われるか! と思い直してもいます。
《 何のため誰のために医者になるのか? 》 《 何のため誰のために医療をするのか? 》 というテーマは未だ達成されていません。この命題を抱えながら、予防を中心に据えた、《 良質にして包括的な保健 ・ 医療 ・ 福祉 を地域に提供する。そして100年を越えて生き続ける医療を実現する。》 という天心堂の医療目標を達成すべく、これからもうひと踏んばりしたいと今考えています。
これからの5年間で、天心堂医療の原点に改めて還り、プライマリケア / 救急医療 / 在宅医療・介護を核とした、若い医療人が天心堂で研修したいと思うような地域完結型の医療福祉複合体としての天心堂にしたいと考えています。 < 完 >
*初出 九大医学部同窓会誌 『 学士鍋 』 第125号 2002年12月20日発行
2008年4月16日
何のため誰のために医療をするのか?
エッセイ 1
§ 生活を診る医療 ⑤
2002年4月の診療報酬改定で、“ 生活習慣病指導管理料 ” という新しい “ 概念 ” が導入されました。これは、高脂血症・高血圧症 ・ 糖尿病などは、個人の生活習慣に問題があるという断定の上での厚生労働省の視点から出されたもので、私のいう 《 生活を診る 》 医療とは本質的・根本的に立脚点が異なります。厳しい中小零細企業で働いている者にとってはストレスが亢 ( こう ) じて、アルコールを過剰に摂取することはありえます。唯一のくつろぎが晩酌であり、酒の肴をつまむ場面を誰が否定できようか。結果として “ 生活習慣病 ” に陥ったことを国家が咎 ( とが ) めることは許されるべきではない。如何に国家財政が厳しいからといって国家がここまで介入して、罰則として自己負担を強いるのは本末転倒も甚 ( はなは ) だしい。国が介入できるとすれば、予防のための助成金であり、罰としての自己負担増であってはならないと思います。プライマリーの分野で働いている医者は、この視点を持ちあわせていないと食べてゆけない時代となっていますが、分業体制で臓器別に分かれている大病院の医者は特にこの 《 生活を診る 》 視点が欠落しています。
気づいたことの2つ目は、多くの医療提供者は “ 癒し ” に関する視座を持ちあわせていないことです。患者の 《 生活を診る 》 視座の他に、治療空間や文学 ・ 音楽 ・ 絵画などが、患者の癒しの過程に実に大きな役割を果たしているという視点を持つことは極めて重要です。97年に移転新築した新へつぎ病院は空間を大胆に生かした設計で、音楽 ・ 絵画を取り入れ、患者に公開した書籍棚も設けています。
3つ目は、医者の技量にものすごいバラツキがある点です。本人の器量にもよりますが、かなりの医者が、基本的 ・ 常識的なエチケットさえ知らないのに驚きます。挨拶、報告 ・ 連絡 ・ 相談、感謝という 『 最低限の教養 』 さえ持ちあわせていない者が少なからずいます。少なくともこの3つ目の最低限の “ 教養 ” がないと、医療の質をあげること自体不可能です。
学校の成績さえ良ければ、社会も家庭も教師も何も言わないという学校教育がこのような非人間的医者を大量生産したのであろう。こどもの教育・医学教育を根本から考え直さなければ良質な医者は輩出しないでしょうし、良質な医療は提供することさえ困難でしょう。そしてまた、現在のすさまじい量の医療事故を減少させることさえできないでしょう。
2000年秋、『 医療法等の一部を改正する法律案 』 を検討する国会の厚生委員会で参考人として意見陳述を行いました。私の意見が、お蔵入りしはじめていた新 “ 卒後医師臨床研修システム ” を改めて浮上させることを可能にしました。来春より実施される新たな医学教育や卒後臨床研修の中で、教官や指導医はこの3つの視座からの教育や指導に臨むことが必須と思うのだが、果して、…。
*初出 九大医学部同窓会誌 『 学士鍋 』 第125号 2002年12月20日発行
2008年4月15日
何のため誰のために医療をするのか?
エッセイ 1
§ 生活を診る医療 ④
8年間千早に籍を置いた後、思うところがあって79年に郷里の大分に帰り、80年9月、101床の天心堂へつぎ病院を開設しました。
へつぎ病院開設にあたって 《 ①出かける医療 ②見ざる言わざる聞かざる医療はしない 》 という2つの医療実践指針を掲げて診療を開始しました。当初は小児科医として診療していましたが、医師不足のため、3年程して内科に転向しました。内科の同僚から学びつつ、外科医から小外科や救急処置を習い、90年頃には 《 専門は? 》 と聞かれれば、《 総合診療医です 》 と答えられるようになりました。現在では、介護老人保健施設の長をも兼ね、総合診療医としての技量が今一つ増えた気がします。総合診療医はプライマリケア医と言いかえられます。
71年に医師免許を得てから32年、今想うこと、《 無知程恐いものはない 》 という諺通りに、今や360有余人の職員を抱える医療福祉複合体―天心堂―を創りあげてしまいました。これは、私自身が長期的展望に立ってここまでの計画を立てて実行した訳ではなく、結果としてこのようになりました。
へつぎ病院を創設してのこの22年間で、現在の医療というものがやっと見えて来ました。最初に気づきましたことは、現在の日本の医療は臓器を診ても、患者さんの生活は診ていないという現実でした。大病院・大学病院の医師の大部分は、人の生活 ( = 生きるということ ) の中の一断面でしかない疾病状態を、臓器の中でしか観ていないという恐るべき実態でした。
それを思考と行動の中枢…脳…を対象とする神経内科や脳外科医は、否応なく患者さんの生活を診療の中に組み込まざるを得ませんが、外科や整形外科は、摘出・再生・修復の手順が終了しますと、後は関知しないのが一般的です。医学の細分化が進むにつれ、それは益々激しくなってゆきますが、医者が診る疾病は、やはり患者さんが生活している過程で隅々疾病に罹患した生活の一断面でしかないという点を医者はもっと知るべきです。QOL (注) という言葉は、その意味での警告と受け止めるべきだと私は思います。
注 : Quality of Life の略。生命の質・生活の質・人生の質と訳される。筆者自身はすべての意味を込めて使用しています。80年代後半から医学論文で、《 治療により、その患者さんの QOL を高めることができる 》 という使い方が頻繁にされ始めました。
*初出 九大医学部同窓会誌 『 学士鍋 』 第125号 2002年12月20日発行
2008年4月14日
何のため誰のために医療をするのか?
エッセイ 1
§ 医者としての第一歩 ③
ファントム墜落前に苦悩していた私自身の転部の方針は吹き飛んでしまいました。あのようなスローガンを掲げた以上、臨床医にならざるを得ないと最終学年に至ってはじめて自らの将来についての方向性を決定できました。
様々な経緯の中で、三年遅れて卒業することになった71年春、臨床をするとすれば外科か、しかし、大学当局のブラックリストに載っているとすれば、指導医に迷惑がかかるかもしれない、内科であれば、患者さんと教科書・文献に教えてもらいながら努力すれば何とかなるのでは? という想いで研修先を探しました。
しかし、大学での研修はできない、お前たちには外国へのビザも下りないという話もあり、周囲の道はすべて塞がれていました。また、運動に関係した多くの先輩や友人は福岡の地から離れて行きました。九大の関連病院である福岡市内の内科研修ができそうな病院を7~8カ所当たりましたが、すべて断られました。唯一、九州中央病院の三宅博院長(当時九大第一外科名誉教授)からは来ても良いというお言葉をいただきましたが、《 但し、無給である 》 と言われ、学生結婚をした以上、親からの仕送りは断たなければならないし、運動の中で無給医制度反対を唱えていましたので、入職を断念しました。何人かの先輩が私のことを心配して下さり、結局、福岡市東区の千早病院小児科(国家公務員共済組合連合会)に職を得ました。
学生時代あまり医学の勉強をしていませんでしたが、臨床力のある原醇小児科医長の下で何とか医者としての技量を身につけることができました。千早病院在籍中は、注射による筋短縮症・未熟児網膜症問題に取り組み、日本小児科学会の保守的体質を打破し、教科書の2行位を書き換えさせることができました。
*初出 九大医学部同窓会誌 『 学士鍋 』 第125号 2002年12月20日発行
2008年4月13日
何のため誰のために医療をするのか?
エッセイ 1
§ 医者としての登竜門でのとまどい ②
私自身の想いとは別に、この年 ( 1968年 ) の9月、九大医学部自治会が解散し、新委員長に私が選ばれてしまいました。折りしも、インターン制度廃止、新卒後臨床研修教育システム確立要請運動が全国の医学部・医科大学の青年医師連合の手によって進められていました。また、外国では五月革命、中国の文化大革命という形で地球規模での “ 反近代化 ” の学生運動が燎原の火の如く拡がり、日本では全国各地でそれらに呼応して、当時の大学生のほとんどをのみこんだ “ 全共闘運動 ” の炎が燃え拡がっていました。
九大医学部の学生は、69年2月、建国記念日を中心とした一週間にわたる授業放棄 ( いわゆるストライキ ) を敢行し、同年5月14日無期限ストライキに突入しました ( ストライキ解除は翌70年1月15日 )。いずれも、九大医学部始まって以来の出来事でした。
この無期限ストライキは、当時あまり語られていませんでしたが、時間と空間を学生自らの意志と手で全面的に活用したという点で大きな意義があったと今想います。水俣病をはじめとする “ 公害 ” 問題、薬害・医療制度の問題、大学自治の問題などについて、学年を越えたグループ討論が日夜展開されました。
これらの大学での時間と空間を自らの手で創りあげて行ったことは、それに参加した当時の多くの学生のその後の人生に多大な思想的影響をもたらしたと思われます。最大のテーマは 《 何のため誰のために医者になるのか? 》 《 何のため誰のために医療をするのか? 》 でした。私自身も、この大学闘争の真只中で、世界観・価値観の大転換・飛翔を得ました。
*初出 九大医学部同窓会誌 『 学士鍋 』 第125号 2002年12月20日発行
2008年4月12日
何のため誰のために医療をするのか?
エッセイ 1
§ 医者としての登竜門でのとまどい ①
2002年11月5日、私は60才の “ 還暦 ” を迎えました。 “ 歳 ” のことはこれまでほとんど考えたことはありませんでした。それを初めて考えたのは、天心堂創立20周年(1990)年の記念誌の発刊に際し、巻頭言を認めなければならなかった折でした。
大学時代、生理学のG教授が 《 10年一仕事 》 という話をされましたが、その時は 《 何と悠長な 》 と思っていました。この医者としての32年を振り返る時、この言葉の重みが今にして理解できます。
私の医者としての32年を振り返りますと、阿弥陀くじに沿って医療をして来たような気がします。
隅々九大医学部に合格しましたが、専門課程の入り口で躓 ( つまづ ) いてしまいました。解剖学の講義で教科書に書かれている絵と同じ骨のスケッチが黒板に描かれ、ラテン語の名称を記しての講義にはすっかり失望し、講義には出ず、九大医報の編集部に通っていました。私には果たして医者になる適性があるのだろうか、むしろ研究者になるべきではないのかと迷いながらの日々が数ヶ月続きました。その頃は 《 医学とは何か? 》 《 学問はいかにあるべきか? 》 《 研究者はどうあるべきか? 》 ということを模索しながら理学部への転部を真剣に考えていました。
そのような暗中模索の中の1968年6月2日午後10時48分、板付基地 ( 現 福岡空港 ) から飛び立った米軍戦闘機ファントムが、建築中だった九大工学部の “ 電算機センター ” 5階に突っ込み炎上しました。学長を先頭とする 《 板付基地撤去! 》 をスローガンに掲げた数千人のデモが連日行われ、学内は騒然となっていました。
ファントム戦闘機の炎上直後、閉じられた工学部の鉄門扉を独りよじ登り現場を観ました。その折、《 自分も何かしなければ! 》 と強く想いたちました。
*初出 九大医学部同窓会誌 『 学士鍋 』 第125号 2002年12月20日発行
2008年4月11日
私の原点
エッセイ 1
§ 父と天心堂 ⑤
“ 名誉院長 ”の意味を、しっかり私自身が認識しておけば、名誉院長が往診に行かれる時、父が病院に出てくるのではなく、病院から自宅まで車でお迎えに行き、往診に行っていただくべきであったのだ。父である、身内であるという固定観念から私自身が一歩も抜け出ていなかったがために、この極めて常識的な判断ができなかったのである。
ある時、父は言った。「オレに一部屋くれんかのう。往診に行っている何人かをまとめて毎日診たいんじゃがのう!」と。それは、父が疲労しているということの間接的表現であった。そのことに、私は気づかなかった。だから、タテマエ論で終始考え、答えた。「お父さんがそうすると、内科部長が困ると思うよ。それに看護婦の方も古い様式の指示と新しい様式の指示が出て、かえって混乱します。しばらくはそれは遠慮して下さい」と。父の疲労の兆しが、私にはつかめなかったのである。
死後しばらくして、私はこのことに気がついた。悔やんだ。しかし、もはや遅かった。私は、自分が父を殺したのだと思っている。この償いは、天心堂を100年後までも生き続ける医療機関として、発展させることによってしか、償えないと私は思っている。
* 初出 「輝かしき陽光のかげで ― 故 ・ 松本弘の想い出 ― 」 1987年9月1日発行
2008年4月10日
私の原点
エッセイ 1
§ 父と天心堂 ④
名誉院長は私の父である。しかし、私自身、父のことをあまり理解はしてなかったと今思う。むしろ、最近になって父に対する郷愁みたいなものが日増しに強くなってくるのを感じる。
名誉院長の死には、大きく私に責任がある。父は、あの30℃を超す7月の酷暑の中を、冷房のない(父は冷房が嫌いであった)車で毎日往診を続けていた。70代の老人にとって、それを毎日行うことが如何に大変であったか。迂闊にも私はそのことに気がつかなかった。父は決して、きついから、これをやってくれとは言わなかった。家族が申し出ない限り、父の仕事を取りあげることはできなかった。こと患者のことに関しては、診療拒否をすることは一度としてなかった。家族全員で食事をとるということは、年に1回か2回しかなかったが、その食卓に患者が悪いという連絡が入ると、スゥーと席を立って行っていた。母と子供達が、その度に “ ブゥー ” と言っても関係なかった。一緒に食卓を囲むということを、いつしか、我々子供達もあきらめてしまった。
父はそのような思想と行動の持ち主であったから、往診がきつくとも、自ら代わってくれとは言わなかった。私自身が父のそのような思想と行動の本質を理解していなかったため、私自身父に対して気配りは全くしていなかった。同族経営の病院であるから何かと批判されるであろうということを前提にして、私は極めて厳しい指示を同族に与えていた。特別扱いしないと。すなわち、父が死亡するまで、私は父を天心堂の名誉院長として待遇していなかった。
* 初出 「輝かしき陽光のかげで ― 故 ・ 松本弘の想い出 ― 」 1987年9月1日発行
2008年4月 9日
私の原点
エッセイ 1
§ 父と天心堂 ③
名誉院長が逝って7年、その間、天心堂は個人から財団の医療法人となり、今年 (1985年 ) 3月18日には特定医療法人となった。そして、今、病院全体は飛躍の時期に来ている。その礎を築いたのは、名誉院長が1934 ( 昭和 9 ) 年以来、40有余年に亘って骨身を惜しむことなく、地域住民の健康保持に邁進して来られたことにある。天心堂がここまで発展して来たのは、この天心堂の医療を、目に見えぬ形で非常に強固に支えて来た名誉院長に対する地域の人々の厚い信用と信頼による。確かに我々も頑張った。しかし、名誉院長の40有余年に亘る実践活動は、我々の努力と頑張りをはるかに凌駕している。この地域からの名誉院長に対する厚い信用と信頼が、 < 名誉院長のつくった病院だから間違いなかろう! > という形で、今ある天心堂を支えていること。これを私達は決して忘れるべきではなかろう。
今私達が、天心堂の飛躍へ向けて真剣に考えなければならないことは、地域からの名誉院長に対するこの厚い信用と信頼がどこから生まれたのか? ということである。それを明らかにし、それに学び、そしてそれを私達が継承することである。古き良きもの ―― それは時代を越えて生き続けるという普遍性をもっている。私の父が言ったことだから、父が実践して来たことだから、ということではない。誰であろうと、その実践して来たことが、普遍性をもつものであれば、私達はそれを継承すべきだ。名誉院長の足跡を振り返り、顕彰し、それを現在に生かし発展させること。それが今私達に課せられている重要な任務だと思う。
* 初出 「輝かしき陽光のかげで ― 故 ・ 松本弘の想い出 ― 」 1987年9月1日発行
2008年4月 8日
私の原点
エッセイ 1
§ 父と天心堂 ②
医者同士の話では、すでに瞳孔は散大し、自発呼吸はない、従って脳外科に搬送することもできない、駄目だろう、という結論であった。母に相談すると 「 大和山にお伺いをたてる 」 と言う。そして、 「 4日間待ってくれ 」 と言う。名誉院長の配偶者としての母の意向に沿って生命維持装置を装着したまま、4日後の奇跡を祈った。心の隅では、医者としての判断とは別に “ 奇跡 ” をひたすら待っていた。4日後の7月20日、脳波は完全に平坦である。家族で協議していた通り、午後3時15分、私が自らの手で酸素を断った。7月20日3時20分が臨終の時刻となった。20日夜間、身内だけで遺体を囲み、翌21日、火葬にふし、通夜を行なった。火葬にふしてお骨を抱いて帰った時、自宅の周辺は何十メートルにわたって人であふれていた。遠く熊本より父の親戚の者がかけつけて来ていたが、言葉を交わす一刻の余裕さえない。多くの方々がはせ参じて下さった。
それから、また記憶は断たれる。多分相当なストレスがかかっていたのであろう。24日午後が葬儀だというのに22~23日頃より心房細動の発作が起こり、なかなか収まらない。24日朝、山下内科部長より電話があった。 「 カウンターショックをかけましょう。その準備ができています 」 と。途端に私は正常になった。脈も元に戻ったのである。午後1時からの葬儀には、何とか喪主としての役を果たした。
今振りかえってみると、あれだけの人々が集まって焼香していただいた通夜と葬儀は、名誉院長の人間性とその偉大さを象徴していることに気づく。付き合いや、義理でなく、心から涙して焼香をあげて下さった人々の何と多かったことか! ある人は涙ながらに独りごちた。 「 惜しい人を亡くしたものだ! もう二度と先生のような方は出まい」と。またある人は言った。 「 松本先生のような葬式ははじめてだ。私も仕事柄始終あちこちの葬式には参ったが、こんなに心のこもった葬式ははじめてじゃあ! ワシもこんな葬むられ方をされたいけどなあ! しかしそうはいかんじゃろう。本当に感動した! 」 と。
* 初出 「輝かしき陽光のかげで ― 故 ・ 松本弘の想い出 ― 」 1987年9月1日発行
2008年4月 7日
私の原点
エッセイ 1
§ 父と天心堂 ①
1981年7月16日、金曜日であった。朝9時、名誉婦長から病院に電話があった。「今日は名誉院長の外来の当番になっているけど、休ませてくれんかなあ。疲れているようよ。いびきをかいてぐっすり寝てるけん。何度呼んでも返事がないけん」と。私は、「うん、そうね。はいわかった」と言って受話器を置こうとして、はっとした。あわてて受話器を持ちなおし「もしもし !! もう1回大きな声で呼んでみて! 返事がなければ、おかしいよ!」と。待つ間もなく、「返事がまったくないよ !! 」と名誉婦長。「そのままにして! いいかい! 動かしたらいかんよ!」と言ってあわてて自宅にかけつける。父は、顔を右腕にのせ右を向いたまま、応答は全くなかった。脳卒中である !! あわてた。聴診器を忘れている! あわてて応急処置用具を取りに引き返す。
……気がついてみると、心臓停止を来たして、山下先生が心マッサージをしていた。
気が動転するということの意味が理解できたのは、最近のことである。あの父の姿を一見した時、私の気は完全に動転してしまっていたのだ。とりあえず、病院に移すことにした。201号室である。主治医は副院長の石丸である。細かいことは、いま記憶にほとんどない。気が動転してしまったこの間の空白は、私は医者でなかった。一人の息子、素人の、単なる患者の家族の一員でしかなかった。主治医を副院長にして、父が死亡するまでの医学的データーは何一つ記憶にない。データーを見なかったのかもしれない。姉弟妹や親戚が集まり、家があふれ、交互に付き添いながら、夜遅くまで話をしたこと以外あまり覚えていない。父が挿管され、管理されている間、当然ながら診療は続けたと思う。しかし、その記憶も余り定かではない。
* 初出 「輝かしき陽光のかげで ― 故 ・ 松本弘の想い出 ― 」 1987年9月1日発行
2008年4月 6日
人は旅をして気をもらう (3) 白浜
旅
§ 白浜はまゆう病院 ②
4月4日、白浜のホテルに着いたのは夜の9時。病院を出たのが午後1時だったから、8時間かかった。東京よりも遠い。東京の場合、空港まで高速を走って行っても東京の空港まではおおよそ早くても4時間半はかかる。大分から関西空港、和歌山市を経て白浜に行くとしても、待ち時間などを考えるとそれでも6~7時間はかかる。機中の居眠り時間を考えると、JRの利用の場合には移動距離と時間が少ないので、その方がいいと考え、全行程をJRにした。
夜に着き、ビールが飲みたいなと部屋の冷蔵庫を開けると、350ml 250 円のサッポロビールがあった。早速1本あけ、少し物足りないなと冷蔵庫をあさっていたら、梅のチューハイ350ml 缶があった。これは200円。
チューハイを選んだのは、58kcal という数字を眼にしたからである。因みにビールの方は350ml 当たり140kcal と明記されていた。チューハイを飲むと甘い !! これは58kcal どころではないと改めて、うめ缶の文字をよく見直すと、何と! 《 100ml 当たり 58kcal 》 と記されている。計算すると350ml → 203kcal ということになる。
商売人はどうしてこんな姑息なことをするのか! と憤りとともに商売人の儲けるためには人の錯覚さえも利用するという心情にニヤッと笑い敬意を表したくなった。それは私、松本文六が “ 詐欺まがい ” なものにひっかかったことに対する一種の自嘲の反映でもあった。
2008年4月 5日
人は旅をして気をもらう (3) 白浜
旅
§ 白浜はまゆう病院 ①
4月5日、私、松本文六は和歌山県の白浜の地にいる。何で?と誰もが多分考えられるかなあと思う。
白浜と言えば、はるか昔の新婚旅行のメッカでもあった。九州の宮崎がそうであったように。私が新婚旅行でここに来た訳ではない。 《 いいんじゃない、是非進めるべきだ 》 という私の一言が、私と白浜の “ えにし ” を作ったのだ。
それは、1992年のいつだったか、私の友人 E 君から 《 白浜にある国立病院が民間に譲渡されるらしい。これを何らかの形で僕たちの地域医療の根拠地にできないか、同じ志を持った若い医師たちで創ると面白いのだろうけどな 》、という話が私にあった。
早速、E 君とある日、旧国立白浜リハビリテーション病院のある、当時の白浜町の現地を訪れた。それは白浜町の空気のきれいな高台にあった。しかも敷地が広い。これであれば建て替えるにしても充分な土地があり、新旧の建物を有効に使える。しかも、ここは温泉地である。と、あれこれの想いが私、松本文六の脳をめまぐるしく走った。 《 これはいいんじゃあない、是非進めようではないか 》 とE 君に私は答えた。
その後のE 君の行動は素早かった。たちまち、中心となる若い医師2人を説き伏せて、夢がふくらんだ。E君が仕掛け人で、私は意見を求められたので答えただけであったが、いろいろな事情で、私が前面に出ることになってしまった。
白浜町の当時の町長さん、眞鍋清兵衛氏がこの構想に乗って来られて、第3セクターでやろうということになり、着々と準備がすすめられていた。ところがあてにしていた大阪の医療法人が、どういう訳か手の平を返してしまったので、計画は完全にお手あげの状態になってしまった。準備万端整い、医療法人許可の内諾を得ている時点、大阪の医療法人が手をひいてしまったので、町長さんも困り果ててしまっておられた。県との話で財団法人の認可がおりる直前だったので町長さんは大変慌てておられ、天心堂に何とか手助けをしてくれないかと自ら大分の私のところまで来られた。
この時、私は大分医科大学に入院していた。忘れもしない、1992年11月18日午前零時過ぎ、国道10号線の拡幅工事中の道路脇を歩いていて突如4メートル下の荒地に落ち、肋骨数本・左膝蓋骨・右腫骨 ( かかと ) 骨折と胸部の縦隔洞血腫という大怪我をした。
午前0時40分頃わが天心堂へつぎ病院に搬送され、救急処置がなされたらしい(救急車に乗せられる直前から翌朝9時過ぎまで意識なし)。11月19日、目を覚ましたのは旧へつぎ病院5階の病室のベッドの上であった。昼頃になって、もしかしたら開胸手術が必要になるのではないかと、改めて救急車で当時の大分医科大学病院に運ばれた(現大分大学医学部附属病院)。
だから、当初の2週間は胸部外科の病室だった。幸いなことに縦隔洞血腫は落ちついたので、3週目より骨折治療のため整形外科に移った。その最中に、町長さんが病床に来られ、天心堂からの援助の要請を受けた。
少し時間を下さいと即答を避けたものの、協力すべきだと判断し、白浜医療福祉財団法人への出損金を拠出する指示を、当時の事務部長にした。これは理事長としての松本文六の独断であった。12月下旬の退院直後は大変であった。背任行為と散々批判された。場合によっては理事長を辞してでも、自ら借金してでも支援する覚悟で話をつめて行ったので、何とか “ 背任 ” という汚名はまぬがれた。
今日は、その白浜医療福祉財団法人白浜はまゆう病院の5つ目のサテライト診療所、川添診療所の開所式のためにこの白浜の地に来た。今や、この白浜はまゆう病院は和歌山県南部の地域包括医療の中心的医療機関として地域からの厚い信頼と厚い信用を得ている。
“ えにし ” があってこそ、その地を何度も訪れる。それは人間の心情である。
2008年4月 4日
見る・観る・聴く・嗅ぐ (20)
時事エッセイ
§ 『 靖国 YASUKUNI 』上映中止
東京と大阪の映画館5館で予定されていた在日中国人監督李纓氏のドキュメンタリー映画 『 靖国 YASUKUNI 』 の上映が中止された。
その発端は、某週刊誌がこの映画は “ 偏向 ” と決めつけ、それを受けて、自民党議員が問題にして、公開前に事前 “ 検閲 ” をしたからである。自民党の国会議員たちは、文化庁が助成金を出して作成された映画であることも問題にしているという。
私、松本文六は、どうしてこうも度量の小さい国会議員が多いのかと情けなくなる。ドキュメンタリーをつくるのはその製作者の視点がはいるのは当然である。一般に公開される前に自民党国会議員の主観から、これは偏向していると断じれば、とりわけ靖国神社と関係の深い右翼団体が動くのは自然の流れである。意識的に偏向であると断じることによって、上映阻止が実現されることを彼らは当初より考えていたとしか思われない。
それが広く報道された途端に 《 とやかく言われる筋合いはない !! 》 とテレビのインタビューに答えていた弁護士出身の女性議員は、ドキュメンタリー映画についてとやかく言わなかったら、今日のような事態は起こらなかったということさえ想像できないのであろうか? しかしテレビに映った顔は大変悔しそうだったのをみると、やはり、想定内のことだったと推測される。
靖国神社問題は未だに保守政治家と右翼にとっては神聖にしてその過去にまつわる事実さえ触れるべきではないと思っているらしい。過去の事実を事実としてありのままに語ること自身が恐いのであろうか? 彼らの心情は私、松本文六にとっては全く理解できない。
戦争に行って戦死したら靖国神社に神として祀ってあげるという徹底した教育を行い、多くの青年たちを戦地に送りつづけてきたという忌まわしい靖国に関する記憶に耐えられない遺族は沢山いるはずである。とりわけ、真摯なクリスチャンや仏教徒にとっては自らの父や祖父が神として祀られることには嫌悪感を抱くであろうことは容易に想像がつく。名前を消してくれと願い出ても断固として拒否する靖国神社側の精神構造は一体どうなっているのだろうか? きっと、余程の石頭で他人の心の痛みを理解できない構造になっているのであろう。そのような人間がどうして宗教人なのであろうか?
しかし、歴史をひもといてみれば、キリスト教徒が大侵略を行い多くの植民地をつくりつづけ、多くの人間の心と体を踏みにじりつづけてきたこともまた真実である。
人の痛みを自らの痛みとして受容することが、本当の宗教人の心の在り様なのではないか、と私、松本文六は想う。
2008年4月 3日
日本の医療が危ない! (11) 後期高齢者医療制度
後期高齢者医療制度
§ 低所得者に負担が大きい“ 長寿医療制度 ”
本日、2回目の街頭演説をパークプレイスで行った。交差点であったが、同行のA氏は、春で暖かいこともあり、窓を少し開けて先生の話を聞いていましたよと。
今頃、何なのか?という一種の驚きをもって注視されたが、街宣車に “ 後期高齢者医療制度の廃止を! ” という立て看板に眼をひきつけられ、信号待ちの間だけでも耳を傾けてくれていたようだ。
今回、特に強調したのは、保険料の逆進性が高いということである。保険料=均等割+所得割になっているが、大分県の保険料の平均負担額は年間60,509円で全国27位らしい。年金220万円以上の人はすべからく均等割は47,100円なので平均所得は13,409円でしかない。とすれば、これだけで、均等割が低年金者に厳しい内容かが判る。
この均等割額を所得、すなわち旧ただし書き所得 [=年金-(120万+33万円)] で割ってその比率をとってみると、所得の低い人の方がその比率が高いことが判ってビックリした。
低所得者、低年金者ほど負担割合が大きいのは如何なものか?
社会保障の基本は富の分配である。このような形での後期高齢者保険料の設定の仕方はやはりおかしいばかりか、社会保障の根幹をゆるがすものであり、決して許されるべきものではない。
そういう意味では、この後期高齢者医療制度 ( 4月1日に厚労省は “ 長寿医療制度 ” と呼称を変更したらしいが、呼び方の問題では決してない ) はやはり廃止されるべき性質のものである。
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2008年4月 2日
見る・観る・聴く・嗅ぐ (19)
時事エッセイ
§ エコ燃料と食糧事情
エコ燃料と称されるもの程ひどい発想はない。世界の食糧事情が一変しつつある。しかし、これよりもっとひどいのは世界のファンドが石油の値上げで一儲けを企んで投機していることである。
私たちの生活そのものがファンドの金儲け行動のために困窮化してきている。ファンドは貧しい国と貧しい人々の熱い血を吸血鬼のように吸い、自らの生を“ 豊か ” にしても決して、結果責任はとらないであろう。貧しい国は倒れてもいい、貧しい人々は死んでも一向にかまわない、自分たちだけが良ければいいという考えが、その根本にあるから。究極のエゴイストである。
因みに、これまで人間が食糧として確保していた、とうもろこしや大豆などを次々にエコ燃料に変えてゆく、少しばかりこれまでより多くの資金を使ったにせよ、より多くのそのエコ燃料を得るために発展途上国により大量に買い取ってゆく。その国に住む人々の食糧がなくなっていってでも。残るのは餓死である。
これは北の豊かな国が南の貧しい国からエコ燃料の素( もと )を買い入れた当初は、その影響が北に及ぶとは考えもしていなかった。しかし、それがはっきりと現われ始めている。日本での食糧価格が急激に値上がりしてきている。そして、日本の庶民の生活をおびやかしつつある。
因みに、最近の食品の値上げ幅をみてみるとよく判る。私、松本文六は、日常生活において食品を自らの手で購入するということをしていないので、新聞の記事をみてビックリしてしまった。
《 値上がり品の値上げ幅 》( 2008.3.30 大分合同新聞より)
<食品>
政府の輸入小麦( 平均 30% ) ビール類…サッポロ( 3~5% )、サントリー( 缶ビール除き 3~5% ) 牛乳…明治乳業 ( 3~10% )、森永乳業( 平均4.7% )





