文六つうしん 2008年4月号 4/1〜17

4月1日(火)  見る・観る・聴く・嗅ぐ (18)

§ 危険な偽造医薬品と人間の心理

 
にせぐすりが出まわっている。健康被害の危険がある。すでによく知られている勃起不全(ED)治療薬バイアグラの“ にせぐすり ” である。にせぐすりはニセガネと同じで作った側に大きな利益をもたらすから、古今東西いつの時代にも存在する。
 昔はそれが本物なのか偽物なのかを区別するのが困難でもあり、容易でもあった。しかし、現代の偽物は精巧に出まわっているので、鑑別がむつかしいらしい。500円硬貨の偽物が出まわっているらしいが、この真贋 ( しんがん ) を鑑別するにはつい最近まで顕微鏡を使っていたという。そして、最近新しい鑑別方法が発明されたという。音による鑑別で、その音の波形で数秒で判定できるらしい。
 しかし、くすりの偽物の鑑別、とりわけバイアグラの類いは、使ってみないと判定できない。だから健康被害が出ることになる。
 これら偽造医薬品は、日本や欧米の先進国では医薬品全体の売り上げの1%未満だが、途上国では10〜30%に及んでいるという。有効成分が不十分だと治療効果が得られず、かえって病状が悪化することさえある。不純物が死を招くこともあるという。自動車の不凍液に使われる有害物質を含んだ偽造せき止めシロップは、海外で多数の死者を出したこともあるという。
 あるアンケート調査によると、バイアグラその類いを購入するとすれば、インターネットを利用するという人が25.4%、どちらかといえばネットでという人が32.2%、あわせて57.6%であったという。別のアンケート調査で 《 ネットで購入したED治療薬は安全か 》 という問いに対して、いいえが37.4%で、安全と答えた人はわずか3.4%という。
 にもかかわらず、ネットを通して購入したいという人は57.6%に及んでいる !! 《 人に知られたくない 》 という心理が働いているのであろう。
 サプリメントの類いにはお互い気をつけましょう。

*この原稿にはマスメディアでの情報を利用させてもらいました。アンケートの数字は大分合同新聞2008年1月19日のものを使いました。


4月2日(水)  見る・観る・聴く・嗅ぐ (19)

§ エコ燃料と食糧事情

 
エコ燃料と称されるもの程ひどい発想はない。世界の食糧事情が一変しつつある。しかし、これよりもっとひどいのは世界のファンドが石油の値上げで一儲けを企んで投機していることである。
 私たちの生活そのものがファンドの金儲け行動のために困窮化してきている。ファンドは貧しい国と貧しい人々の熱い血を吸血鬼のように吸い、自らの生を“ 豊か ” にしても決して、結果責任はとらないであろう。貧しい国は倒れてもいい、貧しい人々は死んでも一向にかまわない、自分たちだけが良ければいいという考えが、その根本にあるから。究極のエゴイストである。
 因みに、これまで人間が食糧として確保していた、とうもろこしや大豆などを次々にエコ燃料に変えてゆく、少しばかりこれまでより多くの資金を使ったにせよ、より多くのそのエコ燃料を得るために発展途上国により大量に買い取ってゆく。その国に住む人々の食糧がなくなっていってでも。残るのは餓死である。
 これは北の豊かな国が南の貧しい国からエコ燃料の素( もと )を買い入れた当初は、その影響が北に及ぶとは考えもしていなかった。しかし、それがはっきりと現われ始めている。日本での食糧価格が急激に値上がりしてきている。そして、日本の庶民の生活をおびやかしつつある。
 因みに、最近の食品の値上げ幅をみてみるとよく判る。私、松本文六は、日常生活において食品を自らの手で購入するということをしていないので、新聞の記事をみてビックリしてしまった。

《 値上がり品の値上げ幅 》( 2008.3.30 大分合同新聞より)

<食品>

  • 政府の輸入小麦( 平均 30% )
  • ビール類…サッポロ( 3〜5% )、サントリー( 缶ビール除き 3〜5% )
  • 牛乳…明治乳業 ( 3〜10% )、森永乳業( 平均4.7% )
  • バター…よつ葉乳業( 平均 9% )
  • 食用油…日清オイリオグループ( 平均 10% )
  • しょう油…ヤマサ醤油( 平均 11% )
  • 春雨など…ミツカン( 10〜15% )
  • カルピス…カルピス( 平均5% )
  • オリジナルチキン…日本ケンタッキー・フライドチキン( 20円 )

<運賃>

  • 日航・全日空の運賃…国内線 平均9%、国際線( 6〜17% )

<電気・ガスなど>

  • 東京電力など9社( 66〜156円 )、東京ガスなど4社( 6〜162円 )

<旭山動物園>

  • 市民以外の大人の入園料 580 → 800 円

 道路財源問題で、ガソリンの値段がこの4月より一挙に20〜25円全国的に値下がりした。そのような店には行列が出来ていたという。テレビで観る限り全国的な現象である。しかし、所得の低い、東北地方のある地域では在庫が枯渇するまでは、現行料金( 150円前後 )でゆくという。
 この現象だけ取り上げても、庶民が如何に困窮しているのかがよく判る。暫定税率を廃止に到っただのであるから、次善の策としてどうするのかを政治家は明快に国民に対して示して欲しいものである。議会制民主主義の日本においては選挙がない限り、今の政権を動かす以外方法はないのであるから。しかし、何とも淋しいものである。今の永田町には寂寥感が漂っている。


4月3日(木)  日本の医療が危ない  (11) 後期高齢者医療制度

§ 低所得者に負担が大きい“ 長寿医療制度 ”

 
本日、2回目の街頭演説をパークプレイスで行った。交差点であったが、同行のA氏は、春で暖かいこともあり、窓を少し開けて先生の話を聞いていましたよと。
 今頃、何なのか?という一種の驚きをもって注視されたが、街宣車に “ 後期高齢者医療制度の廃止を! ” という立て看板に眼をひきつけられ、信号待ちの間だけでも耳を傾けてくれていたようだ。
 今回、特に強調したのは、保険料の逆進性が高いということである。保険料=均等割+所得割になっているが、大分県の保険料の平均負担額は年間60,509円で全国27位らしい。年金220万円以上の人はすべからく均等割は47,100円なので平均所得は13,409円でしかない。とすれば、これだけで、均等割が低年金者に厳しい内容かが判る。
 この均等割額を所得、すなわち旧ただし書き所得 [=年金−(120万+33万円)] で割ってその比率をとってみると、所得の低い人の方がその比率が高いことが判ってビックリした。

 低所得者、低年金者ほど負担割合が大きいのは如何なものか?
 社会保障の基本は富の分配である。このような形での後期高齢者保険料の設定の仕方はやはりおかしいばかりか、社会保障の根幹をゆるがすものであり、決して許されるべきものではない。
 そういう意味では、この後期高齢者医療制度 ( 4月1日に厚労省は “ 長寿医療制度 ”  と呼称を変更したらしいが、呼び方の問題では決してない ) はやはり廃止されるべき性質のものである。


4月4日(金)  見る・観る・聴く・嗅ぐ (20)

§ 『 靖国 YASUKUNI 』上映中止

 
東京と大阪の映画館5館で予定されていた在日中国人監督李氏のドキュメンタリー映画 『 靖国 YASUKUNI 』 の上映が中止された。
 その発端は、某週刊誌がこの映画は “ 偏向 ” と決めつけ、それを受けて、自民党議員が問題にして、公開前に事前 “ 検閲 ” をしたからである。自民党の国会議員たちは、文化庁が助成金を出して作成された映画であることも問題にしているという。
 私、松本文六は、どうしてこうも度量の小さい国会議員が多いのかと情けなくなる。ドキュメンタリーをつくるのはその製作者の視点がはいるのは当然である。一般に公開される前に自民党国会議員の主観から、これは偏向していると断じれば、とりわけ靖国神社と関係の深い右翼団体が動くのは自然の流れである。意識的に偏向であると断じることによって、上映阻止が実現されることを彼らは当初より考えていたとしか思われない。
 それが広く報道された途端に 《 とやかく言われる筋合いはない !! 》 とテレビのインタビューに答えていた弁護士出身の女性議員は、ドキュメンタリー映画についてとやかく言わなかったら、今日のような事態は起こらなかったということさえ想像できないのであろうか? しかしテレビに映った顔は大変悔しそうだったのをみると、やはり、想定内のことだったと推測される。
 靖国神社問題は未だに保守政治家と右翼にとっては神聖にしてその過去にまつわる事実さえ触れるべきではないと思っているらしい。過去の事実を事実としてありのままに語ること自身が恐いのであろうか? 彼らの心情は私、松本文六にとっては全く理解できない。
 戦争に行って戦死したら靖国神社に神として祀ってあげるという徹底した教育を行い、多くの青年たちを戦地に送りつづけてきたという忌まわしい靖国に関する記憶に耐えられない遺族は沢山いるはずである。とりわけ、真摯なクリスチャンや仏教徒にとっては自らの父や祖父が神として祀られることには嫌悪感を抱くであろうことは容易に想像がつく。名前を消してくれと願い出ても断固として拒否する靖国神社側の精神構造は一体どうなっているのだろうか? きっと、余程の石頭で他人の心の痛みを理解できない構造になっているのであろう。そのような人間がどうして宗教人なのであろうか?
 しかし、歴史をひもといてみれば、キリスト教徒が大侵略を行い多くの植民地をつくりつづけ、多くの人間の心と体を踏みにじりつづけてきたこともまた真実である。
 人の痛みを自らの痛みとして受容することが、本当の宗教人の心の在り様なのではないか、と私、松本文六は想う。


4月5日(土)  人は旅をして気をもらう (3) 白浜 

§ 白浜はまゆう病院 @

 4月5日、私、松本文六は和歌山県の白浜の地にいる。何で?と誰もが多分考えられるかなあと思う。
 白浜と言えば、はるか昔の新婚旅行のメッカでもあった。九州の宮崎がそうであったように。私が新婚旅行でここに来た訳ではない。 《 いいんじゃない、是非進めるべきだ 》 という私の一言が、私と白浜の“えにし”を作ったのだ。
 それは、1992年のいつだったか、私の友人 E君から 《 白浜にある国立病院が民間に譲渡されるらしい。これを何らかの形で僕たちの地域医療の根拠地にできないか、同じ志を持った若い医師たちで創ると面白いのだろうけどな 》、という話が私にあった。
 早速、E君とある日、旧国立白浜リハビリテーション病院のある、当時の白浜町の現地を訪れた。それは白浜町の空気のきれいな高台にあった。しかも敷地が広い。これであれば建て替えるにしても充分な土地があり、新旧の建物を有効に使える。しかも、ここは温泉地である。と、あれこれの想いが私、松本文六の脳をめまぐるしく走った。 《 これはいいんじゃあない、是非進めようではないか 》 と E君に私は答えた。
 その後の E君の行動は素早かった。たちまち、中心となる若い医師2人を説き伏せて、夢がふくらんだ。 E君が仕掛け人で、私は意見を求められたので答えただけであったが、いろいろな事情で、私が前面に出ることになってしまった。
 白浜町の当時の町長さん、眞鍋清兵衛氏がこの構想に乗って来られて、第3セクターでやろうということになり、着々と準備がすすめられていた。ところがあてにしていた大阪の医療法人が、どういう訳か手の平を返してしまったので、計画は完全にお手あげの状態になってしまった。準備万端整い、医療法人許可の内諾を得ている時点、大阪の医療法人が手をひいてしまったので、町長さんも困り果ててしまっておられた。県との話で財団法人の認可がおりる直前だったので町長さんは大変慌てておられ、天心堂に何とか手助けをしてくれないかと自ら大分の私のところまで来られた。
 この時、私は大分医科大学に入院していた。忘れもしない、1992年11月18日午前零時過ぎ、国道10号線の拡幅工事中の道路脇を歩いていて突如4メートル下の荒地に落ち、肋骨数本・左膝蓋骨・右腫骨 ( かかと ) 骨折と胸部の縦隔洞血腫という大怪我をした。
 午前0時40分頃わが天心堂へつぎ病院に搬送され、救急処置がなされたらしい ( 救急車に乗せられる直前から翌朝9時過ぎまで意識なし )。 11月19日、目を覚ましたのは旧へつぎ病院5階の病室のベッドの上であった。昼頃になって、もしかしたら開胸手術が必要になるのではないかと、改めて救急車で当時の大分医科大学病院に運ばれた ( 現大分大学医学部附属病院 )。
 だから、当初の2週間は胸部外科の病室だった。幸いなことに縦隔洞血腫は落ちついたので、3週目より骨折治療のため整形外科に移った。その最中に、町長さんが病床に来られ、天心堂からの援助の要請を受けた。
 少し時間を下さいと即答を避けたものの、協力すべきだと判断し、白浜医療福祉財団法人への出損金を拠出する指示を、当時の事務部長にした。これは理事長としての松本文六の独断であった。12月下旬の退院直後は大変であった。背任行為と散々批判された。場合によっては理事長を辞してでも、自ら借金してでも支援する覚悟で話をつめて行ったので、何とか “ 背任 ” という汚名はまぬがれた。
 今日は、その白浜医療福祉財団法人白浜はまゆう病院の5つ目のサテライト診療所、川添診療所の開所式のためにこの白浜の地に来た。今や、この白浜はまゆう病院は和歌山県南部の地域包括医療の中心的医療機関として地域からの厚い信頼と厚い信用を得ている。
 “ えにし ” があってこそ、その地を何度も訪れる。それは人間の心情である。


4月6日(日)  人は旅をして気をもらう (3) 白浜

§ 白浜はまゆう病院 A

 4月4日、白浜のホテルに着いたのは夜の9時。病院を出たのが午後1時だったから、8時間かかった。東京よりも遠い。東京の場合、空港まで高速を走って行っても東京の空港まではおおよそ早くても4時間半はかかる。大分から関西空港、和歌山市を経て白浜に行くとしても、待ち時間などを考えるとそれでも6〜7時間はかかる。機中の居眠り時間を考えると、JRの利用の場合には移動距離と時間が少ないので、その方がいいと考え、全行程をJRにした。
 夜に着き、ビールが飲みたいなと部屋の冷蔵庫を開けると、350ml 250 円のサッポロビールがあった。早速1本あけ、少し物足りないなと冷蔵庫をあさっていたら、梅のチューハイ350ml 缶があった。これは200円。
 チューハイを選んだのは、58kcal という数字を眼にしたからである。因みにビールの方は350ml 当たり140kcal と明記されていた。チューハイを飲むと甘い !! これは58kcal どころではないと改めて、うめ缶の文字をよく見直すと、何と! 《 100ml 当たり 58kcal 》 と記されている。計算すると350ml → 203kcal ということになる。
 商売人はどうしてこんな姑息なことをするのか! と憤りとともに商売人の儲けるためには人の錯覚さえも利用するという心情にニヤッと笑い敬意を表したくなった。それは私、松本文六が “ 詐欺まがい ” なものにひっかかったことに対する一種の自嘲の反映でもあった。


4月7日(月)  私の原点

§ 父と天心堂 @

 1981年7月16日、金曜日であった。朝9時、名誉婦長から病院に電話があった。「今日は名誉院長の外来の当番になっているけど、休ませてくれんかなあ。疲れているようよ。いびきをかいてぐっすり寝てるけん。何度呼んでも返事がないけん」と。私は、「うん、そうね。はいわかった」と言って受話器を置こうとして、はっとした。あわてて受話器を持ちなおし「もしもし !! もう1回大きな声で呼んでみて! 返事がなければ、おかしいよ!」と。待つ間もなく、「返事がまったくないよ !! 」と名誉婦長。「そのままにして! いいかい! 動かしたらいかんよ!」と言ってあわてて自宅にかけつける。父は、顔を右腕にのせ右を向いたまま、応答は全くなかった。脳卒中である !! あわてた。聴診器を忘れている! あわてて応急処置用具を取りに引き返す。
 ……気がついてみると、心臓停止を来たして、山下先生が心マッサージをしていた。
 気が動転するということの意味が理解できたのは、最近のことである。あの父の姿を一見した時、私の気は完全に動転してしまっていたのだ。とりあえず、病院に移すことにした。201号室である。主治医は副院長の石丸である。細かいことは、いま記憶にほとんどない。気が動転してしまったこの間の空白は、私は医者でなかった。一人の息子、素人の、単なる患者の家族の一員でしかなかった。主治医を副院長にして、父が死亡するまでの医学的データーは何一つ記憶にない。データーを見なかったのかもしれない。姉弟妹や親戚が集まり、家があふれ、交互に付き添いながら、夜遅くまで話をしたこと以外あまり覚えていない。父が挿管され、管理されている間、当然ながら診療は続けたと思う。しかし、その記憶も余り定かではない。

* 初出 「輝かしき陽光のかげで ― 故 ・ 松本弘の想い出 ― 」 1987年9月1日発行


4月8日(火)  私の原点

§ 父と天心堂 A

 医者同士の話では、すでに瞳孔は散大し、自発呼吸はない、従って脳外科に搬送することもできない、駄目だろう、という結論であった。母に相談すると「大和山にお伺いをたてる」と言う。そして、「4日間待ってくれ」と言う。名誉院長の配偶者としての母の意向に沿って生命維持装置を装着したまま、4日後の奇跡を祈った。心の隅では、医者としての判断とは別に  “奇跡”をひたすら待っていた。4日後の7月20日、脳波は完全に平坦である。家族で協議していた通り、午後3時15分、私が自らの手で酸素を断った。7月20日3時20分が臨終の時刻となった。20日夜間、身内だけで遺体を囲み、翌21日、火葬にふし、通夜を行なった。火葬にふしてお骨を抱いて帰った時、自宅の周辺は何十メートルにわたって人であふれていた。遠く熊本より父の親戚の者がかけつけて来ていたが、言葉を交わす一刻の余裕さえない。多くの方々がはせ参じて下さった。
 それから、また記憶は断たれる。多分相当なストレスがかかっていたのであろう。24日午後が葬儀だというのに22〜23日頃より心房細動の発作が起こり、なかなか収まらない。24日朝、山下内科部長より電話があった。 「カウンターショックをかけましょう。その準備ができています」と。途端に私は正常になった。脈も元に戻ったのである。午後1時からの葬儀には、何とか喪主としての役を果たした。
 今振りかえってみると、あれだけの人々が集まって焼香していただいた通夜と葬儀は、名誉院長の人間性とその偉大さを象徴していることに気づく。付き合いや、義理でなく、心から涙して焼香をあげて下さった人々の何と多かったことか! ある人は涙ながらに独りごちた。「惜しい人を亡くしたものだ! もう二度と先生のような方は出まい」と。またある人は言った。「松本先生のような葬式ははじめてだ。私も仕事柄始終あちこちの葬式には参ったが、こんなに心のこもった葬式ははじめてじゃあ! ワシもこんな葬むられ方をされたいけどなあ! しかしそうはいかんじゃろう。本当に感動した!」と。

* 初出 「輝かしき陽光のかげで ― 故・松本弘の想い出―」 1987年9月1日発行


4月9日(水)  私の原点

§ 父と天心堂 B

 名誉院長が逝って7年、その間、天心堂は個人から財団の医療法人となり、今年 (1985年 ) 3月18日には特定医療法人となった。そして、今、病院全体は飛躍の時期に来ている。その礎を築いたのは、名誉院長が1934 ( 昭和 9 ) 年以来、40有余年に亘って骨身を惜しむことなく、地域住民の健康保持に邁進して来られたことにある。天心堂がここまで発展して来たのは、この天心堂の医療を、目に見えぬ形で非常に強固に支えて来た名誉院長に対する地域の人々の厚い信用と信頼による。確かに我々も頑張った。しかし、名誉院長の40有余年に亘る実践活動は、我々の努力と頑張りをはるかに凌駕している。この地域からの名誉院長に対する厚い信用と信頼が、 < 名誉院長のつくった病院だから間違いなかろう! > という形で、今ある天心堂を支えていること。これを私達は決して忘れるべきではなかろう。
 今私達が、天心堂の飛躍へ向けて真剣に考えなければならないことは、地域からの名誉院長に対するこの厚い信用と信頼がどこから生まれたのか? ということである。それを明らかにし、それに学び、そしてそれを私達が継承することである。古き良きもの ―― それは時代を越えて生き続けるという普遍性をもっている。私の父が言ったことだから、父が実践して来たことだから、ということではない。誰であろうと、その実践して来たことが、普遍性をもつものであれば、私達はそれを継承すべきだ。名誉院長の足跡を振り返り、顕彰し、それを現在に生かし発展させること。それが今私達に課せられている重要な任務だと思う。

初出 「輝かしき陽光のかげで ― 故 ・ 松本弘の想い出 ― 」 1987年9月1日発行


4月10日(木)  私の原点

§ 父と天心堂 C

 名誉院長は私の父である。しかし、私自身、父のことをあまり理解はしてなかったと今思う。むしろ、最近になって父に対する郷愁みたいなものが日増しに強くなってくるのを感じる。
 名誉院長の死には、大きく私に責任がある。父は、あの30℃を超す7月の酷暑の中を、冷房のない(父は冷房が嫌いであった)車で毎日往診を続けていた。70代の老人にとって、それを毎日行うことが如何に大変であったか。迂闊にも私はそのことに気がつかなかった。父は決して、きついから、これをやってくれとは言わなかった。家族が申し出ない限り、父の仕事を取りあげることはできなかった。こと患者のことに関しては、診療拒否をすることは一度としてなかった。家族全員で食事をとるということは、年に1回か2回しかなかったが、その食卓に患者が悪いという連絡が入ると、スゥーと席を立って行っていた。母と子供達が、その度に “ブゥー”と言っても関係なかった。一緒に食卓を囲むということを、いつしか、我々子供達もあきらめてしまった。
 父はそのような思想と行動の持ち主であったから、往診がきつくとも、自ら代わってくれとは言わなかった。私自身が父のそのような思想と行動の本質を理解していなかったため、私自身父に対して気配りは全くしていなかった。同族経営の病院であるから何かと批判されるであろうということを前提にして、私は極めて厳しい指示を同族に与えていた。特別扱いしないと。すなわち、父が死亡するまで、私は父を天心堂の名誉院長として待遇していなかった。

* 初出「輝かしき陽光のかげで ―故・松本弘の想い出―」 1987年9月1日発行


4月11日(金)  私の原点

§ 父と天心堂 D


 “ 名誉院長 ”の意味を、しっかり私自身が認識しておけば、名誉院長が往診に行かれる時、父が病院に出てくるのではなく、病院から自宅まで車でお迎えに行き、往診に行っていただくべきであったのだ。父である、身内であるという固定観念から私自身が一歩も抜け出ていなかったがために、この極めて常識的な判断ができなかったのである。
 ある時、父は言った。「オレに一部屋くれんかのう。往診に行っている何人かをまとめて毎日診たいんじゃがのう!」と。それは、父が疲労しているということの間接的表現であった。そのことに、私は気づかなかった。だから、タテマエ論で終始考え、答えた。「お父さんがそうすると、内科部長が困ると思うよ。それに看護婦の方も古い様式の指示と新しい様式の指示が出て、かえって混乱します。しばらくはそれは遠慮して下さい」と。父の疲労の兆しが、私にはつかめなかったのである。
 死後しばらくして、私はこのことに気がついた。悔やんだ。しかし、もはや遅かった。私は、自分が父を殺したのだと思っている。この償いは、天心堂を100年後までも生き続ける医療機関として、発展させることによってしか、償えないと私は思っている。

* 初出 「輝かしき陽光のかげで ― 故 ・ 松本弘の想い出 ― 」 1987年9月1日発行


4月12日(土)  何のため誰のために医療をするのか?

§ 医者としての登竜門でのとまどい @

 2002年11月5日、私は60才の “ 還暦 ” を迎えました。 “ 歳 ” のことはこれまでほとんど考えたことはありませんでした。それを初めて考えたのは、天心堂創立20周年(1990)年の記念誌の発刊に際し、巻頭言を認めなければならなかった折でした。
 大学時代、生理学のG教授が 《 10年一仕事 》 という話をされましたが、その時は 《 何と悠長な 》 と思っていました。この医者としての32年を振り返る時、この言葉の重みが今にして理解できます。

 私の医者としての32年を振り返りますと、阿弥陀くじに沿って医療をして来たような気がします。
 隅々九大医学部に合格しましたが、専門課程の入り口で躓 ( つまづ ) いてしまいました。解剖学の講義で教科書に書かれている絵と同じ骨のスケッチが黒板に描かれ、ラテン語の名称を記しての講義にはすっかり失望し、講義には出ず、九大医報の編集部に通っていました。私には果たして医者になる適性があるのだろうか、むしろ研究者になるべきではないのかと迷いながらの日々が数ヶ月続きました。その頃は 《 医学とは何か? 》  《 学問はいかにあるべきか? 》  《 研究者はどうあるべきか? 》 ということを模索しながら理学部への転部を真剣に考えていました。
 そのような暗中模索の中の1968年6月2日午後10時48分、板付基地 ( 現 福岡空港 ) から飛び立った米軍戦闘機ファントムが、建築中だった九大工学部の “ 電算機センター ” 5階に突っ込み炎上しました。学長を先頭とする 《 板付基地撤去! 》 をスローガンに掲げた数千人のデモが連日行われ、学内は騒然となっていました。
 ファントム戦闘機の炎上直後、閉じられた工学部の鉄門扉を独りよじ登り現場を観ました。その折、《 自分も何かしなければ! 》 と強く想いたちました。

初出 九大医学部同窓会誌 『 学士鍋 』 第125号 2002年12月20日発行


4月13日(日)  何のため誰のために医療をするのか?

§ 医者としての登竜門でのとまどい A


 私自身の想いとは別に、この年( 1968 年)の9月、九大医学部自治会が解散し、新委員長に私が選ばれてしまいました。折りしも、インターン制度廃止、新卒後臨床研修教育システム確立要請運動が全国の医学部・医科大学の青年医師連合の手によって進められていました。また、外国では五月革命、中国の文化大革命という形で地球規模での “反近代化”の学生運動が燎原の火の如く拡がり、日本では全国各地でそれらに呼応して、当時の大学生のほとんどをのみこんだ“全共闘運動”の炎が燃え拡がっていました。
 九大医学部の学生は、69年2月、建国記念日を中心とした一週間にわたる授業放棄 (いわゆるストライキ )を敢行し、同年5月14日無期限ストライキに突入しました (ストライキ解除は翌70年1月15 日)。いずれも、九大医学部始まって以来の出来事でした。
 この無期限ストライキは、当時あまり語られていませんでしたが、時間と空間を学生自らの意志と手で全面的に活用したという点で大きな意義があったと今想います。水俣病をはじめとする“公害”問題、薬害・医療制度の問題、大学自治の問題などについて、学年を越えたグループ討論が日夜展開されました。
 これらの大学での時間と空間を自らの手で創りあげて行ったことは、それに参加した当時の多くの学生のその後の人生に多大な思想的影響をもたらしたと思われます。最大のテーマは《何のため誰のために医者になるのか?》  《何のため誰のために医療をするのか? 》でした。私自身も、この大学闘争の真只中で、世界観・価値観の大転換・飛翔を得ました。

*初出 九大医学部同窓会誌 『学士鍋』第125号 2002年12月20日発行


4月14日(月)  何のため誰のために医療をするのか?

§ 医者としての第一歩 B

 ファントム墜落前に苦悩していた私自身の転部の方針は吹き飛んでしまいました。あのようなスローガンを掲げた以上、臨床医にならざるを得ないと最終学年に至ってはじめて自らの招来についての方向性を決定できました。
 様々な経緯の中で、三年遅れて卒業することになった71年春、臨床をするとすれば外科か、しかし、大学当局のブラックリストに載っているとすれば、指導医に迷惑がかかるかもしれない、内科であれば、患者さんと教科書・文献に教えてもらいながら努力すれば何とかなるのでは? という想いで研修先を探しました。
 しかし、大学での研修はできない、お前たちには外国へのビザも下りないという話もあり、周囲の道はすべて塞がれていました。また、運動に関係した多くの先輩や友人は福岡の地から離れて行きました。九大の関連病院である福岡市内の内科研修ができそうな病院を7〜8カ所当たりましたが、すべて断られました。唯一、九州中央病院の三宅博院長(当時九大第一外科名誉教授)からは来ても良いというお言葉をいただきましたが、《 但し、無給である 》 と言われ、学生結婚をした以上、親からの仕送りは断たなければならないし、運動の中で無給医制度反対を唱えていましたので、入職を断念しました。何人かの先輩が私のことを心配して下さり、結局、福岡市東区の千早病院小児科(国家公務員共済組合連合会)に職を得ました。
 学生時代あまり医学の勉強をしていませんでしたが、臨床力のある原醇小児科医長の下で何とか医者としての技量を身につけることができました。千早病院在籍中は、注射による筋短縮症・未熟児網膜症問題に取り組み、日本小児科学会の保守的体質を打破し、教科書の2行位を書き換えさせることができました。

*初出 九大医学部同窓会誌 『 学士鍋 』 第125号 2002年12月20日発行


4月15日(火)  何のため誰のために医療をするのか?

§生活を診る医療 C

 8年間千早に籍を置いた後、思うところがあって79年に郷里の大分に帰り、80年9月、101床の天心堂へつぎ病院を開設しました。
 へつぎ病院開設にあたって 《 @出かける医療 A見ざる言わざる聞かざる医療はしない 》 という2つの医療実践指針を掲げて診療を開始しました。当初は小児科医として診療していましたが、医師不足のため、3年程して内科に転向しました。内科の同僚から学びつつ、外科医から小外科や救急処置を習い、90年頃には 《 専門は? 》 と聞かれれば、《 総合診療医です 》 と答えられるようになりました。現在では、介護老人保健施設の長をも兼ね、総合診療医としての技量が今一つ増えた気がします。総合診療医はプライマリケア医と言いかえられます。

 71年に医師免許を得てから32年、今想うこと、《 無知程恐いものはない 》 という諺通りに、今や360有余人の職員を抱える医療福祉複合体―天心堂―を創りあげてしまいました。これは、私自身が長期的展望に立ってここまでの計画を立てて実行した訳ではなく、結果としてこのようになりました。
 へつぎ病院を創設してのこの22年間で、現在の医療というものがやっと見えて来ました。最初に気づきましたことは、現在の日本の医療は臓器を診ても、患者さんの生活は診ていないという現実でした。大病院・大学病院の医師の大部分は、人の生活 ( = 生きるということ ) の中の一断面でしかない疾病状態を、臓器の中でしか観ていないという恐るべき実態でした。
 それを思考と行動の中枢…脳…を対象とする神経内科や脳外科医は、否応なく患者さんの生活を診療の中に組み込まざるを得ませんが、外科や整形外科は、摘出・再生・修復の手順が終了しますと、後は関知しないのが一般的です。医学の細分化が進むにつれ、それは益々激しくなってゆきますが、医者が診る疾病は、やはり患者さんが生活している過程で隅々疾病に罹患した生活の一断面でしかないという点を医者はもっと知るべきです。QOL (注) という言葉は、その意味での警告と受け止めるべきだと私は思います。

注 : Quality of Life の略。生命の質・生活の質・人生の質と訳される。筆者自身はすべての意味を込めて使用しています。80年代後半から医学論文で、《 治療により、その患者さんの QOL を高めることができる 》 という使い方が頻繁にされ始めました。

*初出 九大医学部同窓会誌 『 学士鍋 』 第125号 2002年12月20日発行


4月16日(水)  何のため誰のために医療をするのか?

§生活を診る医療 D


 2002年4月の診療報酬改定で、“ 生活習慣病指導管理料 ” という新しい “ 概念 ” が導入されました。これは、高脂血症・高血圧症 ・ 糖尿病などは、個人の生活習慣に問題があるという断定の上での厚生労働省の視点から出されたもので、私のいう 《 生活を診る 》 医療とは本質的・根本的に立脚点が異なります。厳しい中小零細企業で働いている者にとってはストレスが亢 ( こう ) じて、アルコールを過剰に摂取することはありえます。唯一のくつろぎが晩酌であり、酒の肴をつまむ場面を誰が否定できようか。結果として “ 生活習慣病 ” に陥ったことを国家が咎 ( とが ) めることは許されるべきではない。如何に国家財政が厳しいからといって国家がここまで介入して、罰則として自己負担を強いるのは本末転倒も甚 ( はなは ) だしい。国が介入できるとすれば、予防のための助成金であり、罰としての自己負担増であってはならないと思います。プライマリーの分野で働いている医者は、この視点を持ちあわせていないと食べてゆけない時代となっていますが、分業体制で臓器別に分かれている大病院の医者は特にこの 《 生活を診る 》 視点が欠落しています。
 気づいたことの2つ目は、多くの医療提供者は “ 癒し ” に関する視座を持ちあわせていないことです。患者の 《 生活を診る 》 視座の他に、治療空間や文学 ・ 音楽 ・ 絵画などが、患者の癒しの過程に実に大きな役割を果たしているという視点を持つことは極めて重要です。97年に移転新築した新へつぎ病院は空間を大胆に生かした設計で、音楽 ・ 絵画を取り入れ、患者に公開した書籍棚も設けています。
 3つ目は、医者の技量にものすごいバラツキがある点です。本人の器量にもよりますが、かなりの医者が、基本的 ・ 常識的なエチケットさえ知らないのに驚きます。挨拶、報告 ・ 連絡 ・ 相談、感謝という 『 最低限の教養 』 さえ持ちあわせていない者が少なからずいます。少なくともこの3つ目の最低限の “ 教養 ” がないと、医療の質をあげること自体不可能です。
 学校の成績さえ良ければ、社会も家庭も教師も何も言わないという学校教育がこのような非人間的医者を大量生産したのであろう。こどもの教育・医学教育を根本から考え直さなければ良質な医者は輩出しないでしょうし、良質な医療は提供することさえ困難でしょう。そしてまた、現在のすさまじい量の医療事故を減少させることさえできないでしょう。
 2000年秋、『 医療法等の一部を改正する法律案 』 を検討する国会の厚生委員会で参考人として意見陳述を行いました。私の意見が、お蔵入りしはじめていた新 “ 卒後医師臨床研修システム ” を改めて浮上させることを可能にしました。来春より実施される新たな医学教育や卒後臨床研修の中で、教官や指導医はこの3つの視座からの教育や指導に臨むことが必須と思うのだが、果して、…。

初出 九大医学部同窓会誌 学士鍋 125号 20021220日発行


4月17日(木)  何のため誰のために医療をするのか?

§32年目に気づいたこと E


 《One Generationは30年 》という言葉があります。最近、そのことにやっと思い当たりました。外来診療で患者さんから話を聞いていますと、人は誰でも年をとることに気づきにくいもののようです。
 へつぎ病院を開設後の10年間は、とにかく病院が地域の人々から認知されることを希い、猪突猛進の日々でした。病院開設13年目の1993年に 《地域医療研究会 93 IN豊の国》を別府で主催し、13年間の天心堂の医療を総括し、天心堂の理念を確立しました。また、脳死臓器移植問題に関しては、一人の医者として一人の人間として 《“脳死”は人の死ではない/脳死状態からの臓器摘出は認められない/他人の死を前程とする医療には反対》という立場で全国規模での行動を展開しました。そして、97年には病院を移転新築し、入院機能と外来機能を完全に分離しました。
 しかしながら、80年に創設した天心堂の20周年誌の巻頭言を書き始めて気づきましたことは、90年からの10年間の自分は何をやっていたのかということでした。ふと立ち止まって振り返りますと、理念を整理し、新病院をつくったものの、前半10年間に築きあげてきた天心堂そのものがもろくも崩れはじめていることに気付きました。また、本来、この時期に病院経営・運営の骨幹たる若き後継者を養成していなければいけなかったのに、それを実体化できませんでした。自らが年をとることをいつしか忘れてしまっていました。さらに、69年卒の卒業アルバムに 《裸の王様にはなりたくない! 》 と自ら記しておきながら、自らがそのような状況に陥り始めていたことにはたと思い至りました。この愚かさにやっと気付き、今相当慌てている。あぁ! しかし30年目にして遅ればせながらも気付いたのであればまだ救われるか! と思い直してもいます。

 《何のため誰のために医者になるのか?》  《何のため誰のために医療をするのか? 》というテーマは未だ達成されていません。この命題を抱えながら、予防を中心に据えた、《 良質にして包括的な保健・医療・福祉を地域に提供する。そして100年を越えて生き続ける医療を実現する。》 という天心堂の医療目標を達成すべく、これからもうひと踏んばりしたいと今考えています。
 これからの5年間で、天心堂医療の原点に改めて還り、プライマリケア/救急医療/在宅医療・介護を核とした、若い医療人が天心堂で研修したいと思うような地域完結型の医療福祉複合体としての天心堂にしたいと考えています。 < 完 >

*初出 九大医学部同窓会誌 『学士鍋』第125号 2002年12月20日発行


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